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2020年8月11日 (火) 04:38時点における版

勿吉(もつきつ、拼音:Wùjí)は、中国の南北朝時代に、高句麗の北から満州地域に住んでいた狩猟民族で、現在の松花江から長白山一帯に居住していたと思われる。粛慎挹婁の末裔で、代における靺鞨の前身である。

5世紀頃の東夷諸国と勿吉の位置。

名称

漢字表記名「勿吉」は、ある名称の音写と考えられるが、その原音が何であったかはわからない。しかし、いくつかの説がある。

フランスのシャヴァンヌ(Ed. Chavannes)はテオフィラクト・シモカッタの記録にある「Mukri(ムクリ)」を「勿吉(Muki)」に比定し、テオフィラクトの記録にある「MukriはTaugas(拓跋王朝)に隣接する極めて勇武の民族」という記述を、『北史』勿吉伝にある「勿吉国は高句麗の北にあり、東夷において最強である」という記述と結び付けた[1]。また、中国の高凱軍は「挹婁、勿吉、靺鞨は夫余人や高句麗人の粛慎に対する呼び名であり、彼等の自称ではない」としている[2]

歴史

満洲の歴史
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遼西郡 遼東郡
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南北朝時代

北魏延興年間(471年 - 476年)、遣使の乙力支が北魏に朝献する。

太和477年 - 499年)の初め、ふたたび乙力支が北魏に朝献し、馬500匹を貢納した。

太和9年(485年)、遣使の侯尼支が朝献。太和10年(486年)も入貢した。

太和12年(488年)、勿吉は遣使を送って楛矢方物を貢納した。

太和17年(493年)、遣使の婆非ら500余人が朝献。

景明4年(503年)、遣使の侯力帰らが朝貢。

東魏興和2年(540年)6月、遣使の石久雲らが方物を貢納し、武定543年 - 550年)に至るまで途絶えず。

隋代

開皇581年 - 600年)の初め、勿吉は遣使を送って隋に貢献した。

大業8年(612年)、煬帝(在位:604年 - 618年)が高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行った際、勿吉渠帥の突地稽はその部を率いて隋に降り、右光禄大夫を拝命し、翌大業9年(613年)の高句麗遠征に従軍して戦功を得る。

勿吉は勇敢なことで知られ、周辺諸国を頻繁に略奪しており、494年には夫余を滅ぼしている。『魏書』・『北史』では「東夷で最強」と評されている。

代以降からは「靺鞨」と表記され始め、「勿吉」と表記されなくなった。

習俗

衣食住

勿吉人の服装は挹婁人と同様、男性が猪(イノシシ)や犬(イヌ)の皮を着用し、女性が布製の裙(スカート)を着用した。牛や羊を飼っていないが、猪(ブタ)を多く飼っており、食物は主にその猪を食す。また米を噛んで製造する酒、いわゆる「口噛み酒」を造って飲む。

住居は夏季は樹上に簡素な家を構え、それ以外の季節は塚状の穴居式住居に数家族~一族が居住した。方形や長方形のものが多く上部に入口があってそこから梯子を使って下へ降りる。また、散居せず2~3m程度の生垣を備えた円形の小城(周囲200~300m)の内側に構えられた住居も多い、城の大半は河川の近傍にある丘の頂上から発見されている。

人尿洗顔

挹婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。

毒矢

彼らの使用する毒矢は殺傷能力に優れており、命中すれば必ず死に至り、毒薬の製造過程で発生する湯気でも死に至るという。その毒薬の製造は毎年の7月8月に行われる。弓の長さは3尺、箭の長さは尺二寸、石(フリント質)を使って鏃(やじり)とした。

婚姻

初婚の夜、男は女の実家で女の乳房を手に取り、そして止める。この行為で婚約が成り、夫婦となる。

埋葬

人が春夏に死んだら遺体を埋め、その塚の上に屋を作って雨があたらないようにする。しかし、秋冬に人が死んだらその遺体を狩りの餌として使用するため、野に遺体を置いて貂に食わせ、そのすきに貂を捕獲する。この貂は勿吉の特産品であり、上質なので中国に重宝され、かつては「挹婁の貂」と称された。

言語

勿吉の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており[3]、当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。

  • ツングース系説…勿吉がのちの女真族(ツングース系)であること、比較言語学的研究により粛慎系の語彙がツングース系に近いということ[4]から、古くから支持されてきた説であり、現在では発掘調査による出土品から日用品や居住形態、食生活の連続性が確認されているため[5]、勿吉は女真の祖先であり、言語系統もツングース系とされる。ただし、史書において粛慎系と言語が異なるとされる夫余や高句麗も、日本ではツングース系とされるので[6]、両系統(粛慎系、濊系)ともツングース系の可能性もある。
  • 古シベリア(古アジア)系説…その独特の言語、習俗から、勿吉等の粛慎系の言語はツングース系ではなく、ニヴフ(ギリヤーク)などの古シベリア系ではないかとする説。過去にシロコゴロフ[7]や三上次男[8]などが提唱した。

構成部族

  • 粟末部…高句麗と接する。勝兵は数千、毎回高句麗を寇す。
  • 伯咄部…粟末部の北に在り。勝兵は7千。
  • 安車骨部…伯咄部の東北に在り。
  • 拂涅部…伯咄部の東に在り。
  • 号室部…拂涅部の東に在り。
  • 黒水部…安車骨部の西北に在り。
  • 白山部…粟末部の東南に在り。

脚注

  1. ^ 内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年)
  2. ^ 高凱軍『通古斯族系的興起』(中華書局 2006年)
  3. ^ 『魏書』列伝第八十八「言語獨異」、『北史』列伝第八十二「言語獨異」
  4. ^ 白鳥庫吉「粛慎考」、「濊貊は果たして何民族と見做すべきか」(『白鳥庫吉全集 第4巻』1970年、岩波書店)
  5. ^ 高凱軍『通古斯族系的興起』(2006年、中華書局)
  6. ^
    • シロコゴロフ、川久保悌郎田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
    • 白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
    • 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
    • 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
    • 三上次男神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
    • 鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
    • 浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
    • 村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
    • 佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
    • 護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
    • 諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
    • 広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
    • 大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
    • 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
    • 薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」
    • 埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
    • 酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
    • 三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
    • 青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
    • 成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
    • 沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
    • 白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
    • 水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
    • 小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
    • 佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
  7. ^ シロコゴロフ著、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)
  8. ^ 三上次男『古代東北アジア史研究』(1977年、吉川弘文館)

参考資料

  • 魏書』(列伝第八十八)
  • 北史』(列伝第八十二)
  • 隋書』(列伝第四十六)
  • 三上次男『古代東北アジア史研究』(吉川弘文館1977年
  • 内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年、ISBN 4810406261
  • 高凱軍『通古斯族系的興起』(中華書局 2006年)

関連項目

外部リンク