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自ら望み、[[和県|和州]]で朱元璋軍に従軍し、[[常遇春]]麾下に配された。[[当塗県|太平]]を攻略し、万戸を授けられた。[[常州市|常州]]、[[寧国市|寧国]]攻略に参加し、総管に進んだ。[[衢州市|衢州]]を攻略し、副元帥の位を授けられた。[[金華市|金華]]を守り、太平興国翼元帥に進んだ。[[安慶市|安慶]]攻略に参加し、安豊救援にあたった。
自ら望み、[[和県|和州]]で朱元璋軍に従軍し、[[常遇春]]麾下に配された。[[当塗県|太平]]を攻略し、万戸を授けられた。[[常州市|常州]]、[[寧国市|寧国]]攻略に参加し、総管に進んだ。[[衢州市|衢州]]を攻略し、副元帥の位を授けられた。[[金華市|金華]]を守り、太平興国翼元帥に進んだ。[[安慶市|安慶]]攻略に参加し、安豊救援にあたった。


[[1363年]]、[[ハ陽湖の戦い|鄱陽湖の戦い]]に参加し、[[武昌区|武昌]]を攻略して武徳衛千戸を授けられた。指揮副使に進んだ。[[カン州市|贛州]]、[[安陸市|安陸]]、[[襄陽市|襄陽]]、[[泰州市|泰州]]攻略に功績を上げた。
[[1363年]]、[[鄱陽湖の戦い]]に参加し、[[武昌区|武昌]]を攻略して武徳衛千戸を授けられた。指揮副使に進んだ。[[カン州市|贛州]]、[[安陸市|安陸]]、[[襄陽市|襄陽]]、[[泰州市|泰州]]攻略に功績を上げた。


[[1366年]]、[[徐達]]に従い、[[平江県|平江]]を攻めて[[張士誠]]軍の軍船を焼き払った。徐達が婁門を攻め、張士誠軍も出撃して戦いとなった。茅成は張士誠軍を破った。勢いに乗り、城の外郭に突入した際、[[十八般兵器|叉]]に当たって、亡くなった。東海郡公を贈られ、功臣廟に祀られた。
[[1366年]]、[[徐達]]に従い、[[平江県|平江]]を攻めて[[張士誠]]軍の軍船を焼き払った。徐達が婁門を攻め、張士誠軍も出撃して戦いとなった。茅成は張士誠軍を破った。勢いに乗り、城の外郭に突入した際、[[十八般兵器|叉]]に当たって、亡くなった。東海郡公を贈られ、功臣廟に祀られた。

2020年8月11日 (火) 04:00時点における版

茅 成(ぼう せい、? - 1366年)は、末の軍人。定遠(現在の安徽省定遠県)の人。朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。

生涯

自ら望み、和州で朱元璋軍に従軍し、常遇春麾下に配された。太平を攻略し、万戸を授けられた。常州寧国攻略に参加し、総管に進んだ。衢州を攻略し、副元帥の位を授けられた。金華を守り、太平興国翼元帥に進んだ。安慶攻略に参加し、安豊救援にあたった。

1363年鄱陽湖の戦いに参加し、武昌を攻略して武徳衛千戸を授けられた。指揮副使に進んだ。贛州安陸襄陽泰州攻略に功績を上げた。

1366年徐達に従い、平江を攻めて張士誠軍の軍船を焼き払った。徐達が婁門を攻め、張士誠軍も出撃して戦いとなった。茅成は張士誠軍を破った。勢いに乗り、城の外郭に突入した際、に当たって、亡くなった。東海郡公を贈られ、功臣廟に祀られた。

参考文献

  • 『明史』 巻133 列伝第21 茅成