コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「羅貫中」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
[[賈仲明]]の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。
[[賈仲明]]の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。


清代の俗説(『塔影園集』、『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の混乱時に[[張士誠]]に仕えたとされ、「(『三国志演義』の)[[赤壁の戦い]]の描写は、[[朱元璋]]と[[陳友諒]]の[[ハ陽湖の戦い|鄱陽湖の戦い]]をモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。
清代の俗説(『塔影園集』、『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の混乱時に[[張士誠]]に仕えたとされ、「(『三国志演義』の)[[赤壁の戦い]]の描写は、[[朱元璋]]と[[陳友諒]]の[[鄱陽湖の戦い]]をモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年8月11日 (火) 03:58時点における版

羅貫中(らかんちゅう、簡体字: 罗贯中、生没年不明)は、中国の末・初の作家。『三国志演義』、『三遂平妖伝』、『残唐五代史演義』、『隋唐両朝志話』など数種の通俗白話小説の編者とされる。山西太原の人とされるが(『録鬼簿続編』)、山東東原の人とも言い(『三国志演義』蒋大器序など)、また浙江杭州の人とも言う(『七修類稿』)。施耐庵の弟子だというが、施耐庵関係の史料の信憑性が著しく低いことから疑問視されている。

。貫中は(『続文献通考』はを貫、字を本中とする)。号は湖海散人。四大奇書とされる『三国志演義』、『水滸伝』を「編した」とされる(『七修類稿』は「もともと原作があって、それをまとめたので『編した』というのだ」と説明する。『施耐庵墓志』では、施耐庵の原作を羅貫中がまとめたものだとしているが、疑わしい)。『西湖遊覧志余』には「小説数十種を編撰した」とあるが、現在、羅貫中が編者であることが確認できるのは数種である。また、同じく『西湖遊覧志余』によれば、通俗小説などという俗悪なものを書いたため、子孫三代がとなったなどと悪評をたてられたという。

賈仲明の『録鬼簿続編』では「戯曲を数十曲書いたが、人付き合いの悪い性格で、最後には行方不明になってしまった」と書かれている。

清代の俗説(『塔影園集』、『徐鈵所絵水滸一百単八将図題跋』)では、元末の混乱時に張士誠に仕えたとされ、「(『三国志演義』の)赤壁の戦いの描写は、朱元璋陳友諒鄱陽湖の戦いをモデルにしていた」と言われる。しかし、彼に関する資料がとても少ないため、「三国志演義は、多くの講談師達が羅貫中の名を借りて出版した」という説もある。

関連項目