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2020年8月11日 (火) 03:58時点における版
陳 桓(ちん かん、? - 1393年)は、元末から明初の軍人。濠州(現在の安徽省鳳陽県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。
生涯
1353年、定遠攻略に参加した24将の1人。滁州攻略に参加した。
1357年4月、寧国・金華攻略に参加した。龍江・彭蠡(鄱陽湖)攻略に参加した。淮東・浙西攻略に参加した。北伐に参加し、功績によって都督僉事となった。
1381年(洪武14年)、胡海・郭英と共に5万の兵を率いて、雲南攻略に向かった。道は険しく苦戦するが、諸蛮族らとの戦闘を重ね、これを敗走させる。再び反抗した芒部、さらに元の右丞の実卜を破る。東川の諸蛮族を降し、大理へ進む。汝寧・靖寧を攻略する。
1384年(洪武17年)、普定侯に封ぜられ、禄2千5百石を賜る。
1387年(洪武20年)、葉昇と共に東川へ遠征し、多数の捕虜を得る。その後、雲南諸軍をまとめあげる。再び反抗した九渓洞の蛮族を破り、陣営を立てて屯田を行った。
1393年(洪武26年)、召還され、藍玉の謀反に加担した疑いで逮捕されて処刑された。
参考文献
- 『明史』巻132 列伝第20