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高祖元年([[紀元前206年]])、関中が劉邦、[[項籍|項羽]]によって落とされ秦が滅び、項羽が[[義帝]]を奉じて各地に王を立てると、越の人間を率いて功績のあった呉芮は衡山王に封じられ、梅鋗は十万戸の侯に封じられた。その後、項羽は九江王英布と衡山王呉芮に命じ、義帝を殺させた(『史記』項羽本紀)。 |
2020年8月11日 (火) 03:56時点における版
呉 芮(ご ぜい、? - 紀元前202年、在位:紀元前202年)は、秦末から前漢にかけての群雄。初代長沙王で、漢代初めに高祖劉邦を皇帝に推戴した異姓諸侯王のうち、趙王張耳と並んで天寿を全うして子孫に王位を伝え、長沙王はその中で最も長く続いた王となった。
略歴
肖像 | |
---|---|
姓名 | 呉芮 |
時代 | 秦代 - 前漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 前202年(漢太祖1年) |
字・別号 | 番君(綽名) |
本貫・出身地等 | 〔不詳〕 |
職官 | 番陽県令〔秦〕→〔地方軍頭領〕 |
爵位・号等 | 衡山王〔楚〕→番君〔楚〕 →長沙王〔漢〕→長沙文王〔没後〕 |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→項羽→劉邦 |
家族・一族 | 子:呉臣、呉淺、孫:呉回 |
秦の番陽県令であり、長江・鄱陽湖一帯の人々に慕われ、「番君」と呼ばれた。陳勝・呉広の乱に始まる秦末の乱の際、英布は呉芮に従い、呉芮は自分の娘を英布の妻とし、越の人間を率いて秦への反乱に加担した。沛公劉邦が南陽を攻めた際、劉邦は呉芮の将の梅鋗と遭遇し、一緒に南陽の県を攻め落とした。
高祖元年(紀元前206年)、関中が劉邦、項羽によって落とされ秦が滅び、項羽が義帝を奉じて各地に王を立てると、越の人間を率いて功績のあった呉芮は衡山王に封じられ、梅鋗は十万戸の侯に封じられた。その後、項羽は九江王英布と衡山王呉芮に命じ、義帝を殺させた(『史記』項羽本紀)。
時期は不明だが呉芮は項羽によって衡山王を剥奪され、番君に降格された。その後、離反して劉邦に与した。英布と同時期のことであるのか、あるいは呉芮が英布を唆して劉邦陣営に付いたのかは不明だが、劉邦は呉芮の功績を高く評価している。
高祖5年(紀元前202年)、漢王劉邦が項羽を滅ぼすと、楚王韓信、韓王韓信、淮南王英布、梁王彭越、趙王張耳、燕王臧荼と共に劉邦に「皇帝」の尊号を奉った。同年、呉芮は劉邦により長沙王(異姓七王の一人)に立てられ、その年に死亡した。文王と諡された。また、高祖劉邦は後に呉芮の忠を褒め称え、律令に記させている。
長沙王は子の成王呉臣が継いだ。呉臣は在位中、反乱を起こすも敗れて逃げてきた英布を殺している。その後も長沙国は劉邦が「劉氏でなければ王としない」と盟約を結んだことの例外となり、哀王呉回、共王呉右、靖王呉著と継承され、長沙国は文帝の後7年(紀元前157年)に呉著が後継ぎを残さず死亡するまで続いた。