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'''唐 正才'''(とう せいさい、''Tang zhengcai''、[[1816年]] - [[1863年]])は、[[太平天国]]の指導者の一人。 |
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[[湖南省]][[祁陽県|祁陽]]出身。湖広地方で行商を営んでいたが、[[1852年]]に太平天国に参加。水軍の指揮官となり、数々の戦功をたてた。特に[[西征 (太平天国)|西征]]では[[頼漢英]]とともに水陸両方から湖南に進攻して、[[岳陽市|岳州]]・荻港を攻略し、[[曽国藩]]に自殺を考えさせるほどであった。[[第一次江南大営攻略]]後の[[1856年]]8月、唐正才の水軍は[[鄱陽湖]]で[[湘軍]]を包囲し、曽国藩に再度自殺未遂をおこさせたが、[[天京事変]]の発生で唐正才は撤退を余儀なくされた。その後、[[蕪湖市|蕪湖]]に駐屯して、長江中下流域の太平天国統治地域の補給・輸送を担当した。そのため[[1861年]]に「航王」の王号を贈られた。1863年11月10日、[[無錫市|無錫]]郊外の至徳橋で戦死した。 |
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2020年8月11日 (火) 03:56時点における版
唐 正才(とう せいさい、Tang zhengcai、1816年 - 1863年)は、太平天国の指導者の一人。
湖南省祁陽出身。湖広地方で行商を営んでいたが、1852年に太平天国に参加。水軍の指揮官となり、数々の戦功をたてた。特に西征では頼漢英とともに水陸両方から湖南に進攻して、岳州・荻港を攻略し、曽国藩に自殺を考えさせるほどであった。第一次江南大営攻略後の1856年8月、唐正才の水軍は鄱陽湖で湘軍を包囲し、曽国藩に再度自殺未遂をおこさせたが、天京事変の発生で唐正才は撤退を余儀なくされた。その後、蕪湖に駐屯して、長江中下流域の太平天国統治地域の補給・輸送を担当した。そのため1861年に「航王」の王号を贈られた。1863年11月10日、無錫郊外の至徳橋で戦死した。