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「劉子翊」の版間の差分

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『[[旧唐書]]』林士弘伝および『[[新唐書]]』林士弘伝によると、前節に紹介した子翊の晩年とは異なる経緯がみられる。
『[[旧唐書]]』林士弘伝および『[[新唐書]]』林士弘伝によると、前節に紹介した子翊の晩年とは異なる経緯がみられる。


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[[615年]](大業11年)、[[鄱陽郡]][[鄱陽県]]の[[操師乞]]が反乱を起こし、元興王を自称した。[[616年]](大業12年)、操師乞は[[豫章郡]]を攻め落としてここに拠り、同郷の[[林士弘]]を[[大将軍]]とした。隋の治書侍御史劉子翊が軍を率いて反乱を討ち、操師乞は矢に当たって戦死した。林士弘が代わって反乱軍の統率を引き継ぐと、子翊と[[ハ陽湖|彭蠡湖]]で戦って隋軍を破り、子翊はここに死んだという。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月11日 (火) 03:55時点における版

劉 子翊(りゅう しよく、549年 - 618年)は、北斉からにかけての官僚軍人本貫彭城郡彭城県叢亭里。

経歴

本節の劉子翊の伝記は『隋書』誠節伝および『北史』節義伝にもとづく。

北斉の徐州司馬の劉徧の子として生まれた。若くして学問を好み、文章の作り方を理解し、性格は剛直で、官吏としての才能があった。北斉に仕えて殿中将軍となった。隋の開皇初年、南和県丞となり、秦州司法参軍事に転じた。598年(開皇18年)、吏部の考功に入り、尚書右僕射の楊素に見出されて、侍御史に抜擢された。ときに永寧県令の李公孝は4歳のときに母を失い、9歳のときに継母が迎えられていた。その後に李公孝の父はさらに別の後妻を迎えて、この女性が亡くなった。劉炫は李公孝の継母に撫育の恩がないことを理由に、李公孝を解任しなかった[1]。子翊は「継母は母と同じだ」と反論して、子翊の意見が採用された。

仁寿年間、子翊は新豊県令となり、有能なことで知られた。607年大業3年)、大理正に任じられた。治書侍御史に抜擢され、朝廷で議論するたびに、子翊の分析は人々の意表を突くものが多かった。

煬帝に従って江都に下向した。天下は混乱したが、煬帝はその非を悟らなかったので、子翊はそばで強く諫めた。煬帝の意に逆らったことから、子翊は丹陽留守を命じられた。まもなく運送の監督のため長江上流に派遣されて、呉棊子の反乱軍に捕らえられた。子翊は呉棊子を説得して、官に投降させた。子翊はまた別の反乱軍を投降させるべく長江を渡った。ときに煬帝が宇文化及らに殺害され、反乱軍がこれを知って子翊に告げた。子翊は信じず、発言者を斬った。反乱軍は子翊に反乱の首領になるよう求めたが、子翊は従わなかった。反乱軍は子翊を捕らえて臨川城下に連行し、城中に煬帝の死を告げさせようとしたが、子翊はその言にそむいて、殺害された。享年は70。

異説

旧唐書』林士弘伝および『新唐書』林士弘伝によると、前節に紹介した子翊の晩年とは異なる経緯がみられる。

615年(大業11年)、鄱陽郡鄱陽県操師乞が反乱を起こし、元興王を自称した。616年(大業12年)、操師乞は豫章郡を攻め落としてここに拠り、同郷の林士弘大将軍とした。隋の治書侍御史劉子翊が軍を率いて反乱を討ち、操師乞は矢に当たって戦死した。林士弘が代わって反乱軍の統率を引き継ぐと、子翊と彭蠡湖で戦って隋軍を破り、子翊はここに死んだという。

脚注

  1. ^ 前近代の中国では父が亡くなると斬衰三年、母が亡くなると斉衰三年の喪に服し、そのあいだ官を退くのが当然とされていた。李公孝の場合は継母であったため、議論になった。

伝記資料