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建康に召還されて秘書監となり、左軍将軍を兼ねた。再び呉興郡太守となって6年、その統治は清廉で穏健なものであったことから、民衆と官吏になつかれ、離任のときには父老1000人あまりが引き留めるべく請願し、離任は先延ばしにされた。[[517年]](天監16年)、死去した。享年は53。[[侍中]]・中護軍の位を追贈された。 |
建康に召還されて秘書監となり、左軍将軍を兼ねた。再び呉興郡太守となって6年、その統治は清廉で穏健なものであったことから、民衆と官吏になつかれ、離任のときには父老1000人あまりが引き留めるべく請願し、離任は先延ばしにされた。[[517年]](天監16年)、死去した。享年は53。[[侍中]]・中護軍の位を追贈された。 |
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末子の柳偃([[柳敬言]]の父)は、字を彦游といい、長城公主を妻に迎え、太子洗馬や[[廬陵郡]]・[[ |
末子の柳偃([[柳敬言]]の父)は、字を彦游といい、長城公主を妻に迎え、太子洗馬や[[廬陵郡]]・[[鄱陽郡]]の内史をつとめた。 |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
2020年8月11日 (火) 03:54時点における版
柳 惲(りゅう うん、465年 - 517年)は、南朝宋から梁にかけての官僚・文人。字は文暢。本貫は河東郡解県。兄は柳悦・柳惔。弟は柳憕・柳忱。
経歴
柳世隆(柳元景の弟の柳叔宗の子)の三男として生まれた。幼くして嵆元栄や羊蓋に学び、弾琴を極めた。また学問を好み、尺牘を得意とした。早くから貴公子の令名があり、初めて詠んだ詩である「搗衣詩」は王融の賞賛を受けた。謝瀹の隣に住んで、かれと友情を結んだ。
南朝斉の竟陵王蕭子良に召し出されて、その下で法曹行参軍をつとめた。諸官を歴任して太子洗馬となった。491年(永明9年)、父が死去したため、官を去って喪に服した。服喪が終わると、鄱陽王蕭鏘の下で相を代行した。後に建康に召還されて、驃騎従事中郎に任じられた。
501年(中興元年)、蕭衍が東征してくると、柳惲は石頭城で蕭衍と面会し、冠軍将軍・征東府司馬となった。建康制圧にあたって、図書や公文書を先んじて保護するよう蕭衍に提案して、聞き入れられた。蕭穎冑が江陵で死去すると、柳惲は蕭衍の命を受けて西上し、和帝を迎えた。給事黄門侍郎に任じられ、歩兵校尉を兼ね、相国右司馬に転じた。
502年(天監元年)、南朝梁が建国されると、柳惲は長兼侍中に任じられ、沈約らとともに新律の制定にあたった。武帝(蕭衍)とともに景陽楼に登って詩を賦すと、その詩は帝の賞賛を受けた。また柳惲は囲碁も得意とし、武帝の命を受けて棋譜を定め、その優劣を公表した。503年(天監2年)、呉興郡太守として出向した。507年(天監6年)、建康に召還されて散騎常侍となり、左民尚書に転じた。509年(天監8年)、持節・都督広交桂越四州諸軍事・仁武将軍・平越中郎将・広州刺史に任じられた。
建康に召還されて秘書監となり、左軍将軍を兼ねた。再び呉興郡太守となって6年、その統治は清廉で穏健なものであったことから、民衆と官吏になつかれ、離任のときには父老1000人あまりが引き留めるべく請願し、離任は先延ばしにされた。517年(天監16年)、死去した。享年は53。侍中・中護軍の位を追贈された。
末子の柳偃(柳敬言の父)は、字を彦游といい、長城公主を妻に迎え、太子洗馬や廬陵郡・鄱陽郡の内史をつとめた。