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若くして[[謝玄]]に従って[[苻堅]]を討ち、功績を挙げて関内侯に封じられた。[[隆安]]年間、[[劉裕]]に従って[[孫恩 (東晋)|孫恩]]を討ち、句章城を守備して、数十日の包囲を受けた。[[余姚県]]の呵浦に進出して、孫恩の部下の張驃を破り、[[海塩県]]の旧治および[[婁県]]まで追撃した。蒲濤口で孫恩と水戦して、重傷を負った。孫恩を鬱洲まで追撃して、さらに石鹿頭まで進み、海塩県の大柱に帰還した。[[402年]]([[元興 (東晋)|元興]]元年)、劉裕に従って[[臨海郡]]に入り、石歩固で[[盧循]]と20日あまりも対峙した。[[403年]](元興2年)、劉裕に従って[[東陽郡]]に入り、徐道覆を撃破した。臨松穴に進軍して盧循を撃破し、[[永嘉郡]]千江まで追撃した。さらに安固に進んだ。[[404年]](元興3年)、劉裕に従って[[桓玄]]を討ち、[[建康 (都城)|建康]]を平定すると、燕国内史に任じられた。
若くして[[謝玄]]に従って[[苻堅]]を討ち、功績を挙げて関内侯に封じられた。[[隆安]]年間、[[劉裕]]に従って[[孫恩 (東晋)|孫恩]]を討ち、句章城を守備して、数十日の包囲を受けた。[[余姚県]]の呵浦に進出して、孫恩の部下の張驃を破り、[[海塩県]]の旧治および[[婁県]]まで追撃した。蒲濤口で孫恩と水戦して、重傷を負った。孫恩を鬱洲まで追撃して、さらに石鹿頭まで進み、海塩県の大柱に帰還した。[[402年]]([[元興 (東晋)|元興]]元年)、劉裕に従って[[臨海郡]]に入り、石歩固で[[盧循]]と20日あまりも対峙した。[[403年]](元興2年)、劉裕に従って[[東陽郡]]に入り、徐道覆を撃破した。臨松穴に進軍して盧循を撃破し、[[永嘉郡]]千江まで追撃した。さらに安固に進んだ。[[404年]](元興3年)、劉裕に従って[[桓玄]]を討ち、[[建康 (都城)|建康]]を平定すると、燕国内史に任じられた。


[[406年]]([[義熙]]2年)、龍驤将軍の号を受け、龍川県五等侯に封じられた。[[409年]](義熙5年)、劉裕に従って[[南燕]]を討ち、[[臨ク県|臨朐]]で燕軍を破った。[[410年]](義熙6年)、盧循が建康に迫ると、[[孟昶 (東晋)|孟昶]]・[[諸葛長民]]らは[[安帝 (東晋)|安帝]]を連れて[[長江]]を渡るよう主張したが、進はこの策に反対し、劉裕に容れられた。樹木を伐採して、石頭に柵を建てて盧循に対する防備を固めた。[[ハ陽郡|鄱陽郡]][[太守]]に任じられ、東道から鄱陽郡に入り、五畝嶠に到達した。盧循の任じた上饒県令の英糾が故城を守っていたが、進はこれを攻撃して破った。また盧循の任じた鄱陽郡太守の童敏之が郡治に拠っていたが、進は余干から徒歩で鄱陽郡治におもむき、童敏之が撤退したところを追撃して破った。[[劉藩]]に従って[[始興郡]]に入り、徐道覆を斬った。
[[406年]]([[義熙]]2年)、龍驤将軍の号を受け、龍川県五等侯に封じられた。[[409年]](義熙5年)、劉裕に従って[[南燕]]を討ち、[[臨ク県|臨朐]]で燕軍を破った。[[410年]](義熙6年)、盧循が建康に迫ると、[[孟昶 (東晋)|孟昶]]・[[諸葛長民]]らは[[安帝 (東晋)|安帝]]を連れて[[長江]]を渡るよう主張したが、進はこの策に反対し、劉裕に容れられた。樹木を伐採して、石頭に柵を建てて盧循に対する防備を固めた。[[鄱陽郡]][[太守]]に任じられ、東道から鄱陽郡に入り、五畝嶠に到達した。盧循の任じた上饒県令の英糾が故城を守っていたが、進はこれを攻撃して破った。また盧循の任じた鄱陽郡太守の童敏之が郡治に拠っていたが、進は余干から徒歩で鄱陽郡治におもむき、童敏之が撤退したところを追撃して破った。[[劉藩]]に従って[[始興郡]]に入り、徐道覆を斬った。


[[412年]](義熙8年)、寧蛮護軍・[[尋陽郡]]太守に任じられた。劉裕に従って[[劉毅 (東晋)|劉毅]]を討った。劉毅が殺害されると、進は太尉行参軍に任じられた。まもなく振威将軍の号を受けた。[[413年]](義熙9年)、功績により望蔡県男に封じられ、龍驤将軍の号を加えられた。[[415年]](義熙11年)、[[司馬休之]]を討って、戦功があった。凱旋すると、輔国将軍・[[山陽郡]]太守に任じられた。劉裕が宋公となると、進は[[秦郡]]太守に任じられ、行[[陳留郡]]事をつとめた。[[420年]]([[元熙 (東晋)|元熙]]2年)、劉裕の四男の[[劉義康]]の下で右将軍司馬となった。[[421年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]2年)、太子右衛率に転じた。[[422年]](永初3年)、在官のまま死去した。享年は60。追って子爵に爵位を進められた。
[[412年]](義熙8年)、寧蛮護軍・[[尋陽郡]]太守に任じられた。劉裕に従って[[劉毅 (東晋)|劉毅]]を討った。劉毅が殺害されると、進は太尉行参軍に任じられた。まもなく振威将軍の号を受けた。[[413年]](義熙9年)、功績により望蔡県男に封じられ、龍驤将軍の号を加えられた。[[415年]](義熙11年)、[[司馬休之]]を討って、戦功があった。凱旋すると、輔国将軍・[[山陽郡]]太守に任じられた。劉裕が宋公となると、進は[[秦郡]]太守に任じられ、行[[陳留郡]]事をつとめた。[[420年]]([[元熙 (東晋)|元熙]]2年)、劉裕の四男の[[劉義康]]の下で右将軍司馬となった。[[421年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]2年)、太子右衛率に転じた。[[422年]](永初3年)、在官のまま死去した。享年は60。追って子爵に爵位を進められた。

2020年8月11日 (火) 03:53時点における版

虞丘 進(ぐきゅう しん、363年 - 422年)は、東晋から南朝宋にかけての軍人は豫之。本貫東海郡郯県

経歴

若くして謝玄に従って苻堅を討ち、功績を挙げて関内侯に封じられた。隆安年間、劉裕に従って孫恩を討ち、句章城を守備して、数十日の包囲を受けた。余姚県の呵浦に進出して、孫恩の部下の張驃を破り、海塩県の旧治および婁県まで追撃した。蒲濤口で孫恩と水戦して、重傷を負った。孫恩を鬱洲まで追撃して、さらに石鹿頭まで進み、海塩県の大柱に帰還した。402年元興元年)、劉裕に従って臨海郡に入り、石歩固で盧循と20日あまりも対峙した。403年(元興2年)、劉裕に従って東陽郡に入り、徐道覆を撃破した。臨松穴に進軍して盧循を撃破し、永嘉郡千江まで追撃した。さらに安固に進んだ。404年(元興3年)、劉裕に従って桓玄を討ち、建康を平定すると、燕国内史に任じられた。

406年義熙2年)、龍驤将軍の号を受け、龍川県五等侯に封じられた。409年(義熙5年)、劉裕に従って南燕を討ち、臨朐で燕軍を破った。410年(義熙6年)、盧循が建康に迫ると、孟昶諸葛長民らは安帝を連れて長江を渡るよう主張したが、進はこの策に反対し、劉裕に容れられた。樹木を伐採して、石頭に柵を建てて盧循に対する防備を固めた。鄱陽郡太守に任じられ、東道から鄱陽郡に入り、五畝嶠に到達した。盧循の任じた上饒県令の英糾が故城を守っていたが、進はこれを攻撃して破った。また盧循の任じた鄱陽郡太守の童敏之が郡治に拠っていたが、進は余干から徒歩で鄱陽郡治におもむき、童敏之が撤退したところを追撃して破った。劉藩に従って始興郡に入り、徐道覆を斬った。

412年(義熙8年)、寧蛮護軍・尋陽郡太守に任じられた。劉裕に従って劉毅を討った。劉毅が殺害されると、進は太尉行参軍に任じられた。まもなく振威将軍の号を受けた。413年(義熙9年)、功績により望蔡県男に封じられ、龍驤将軍の号を加えられた。415年(義熙11年)、司馬休之を討って、戦功があった。凱旋すると、輔国将軍・山陽郡太守に任じられた。劉裕が宋公となると、進は秦郡太守に任じられ、行陳留郡事をつとめた。420年元熙2年)、劉裕の四男の劉義康の下で右将軍司馬となった。421年永初2年)、太子右衛率に転じた。422年(永初3年)、在官のまま死去した。享年は60。追って子爵に爵位を進められた。

子の虞丘耕が後を嗣いだ。

伝記資料