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『盧戸部詩集』10巻が残っている。 |
『盧戸部詩集』10巻が残っている。 |
2020年8月11日 (火) 03:52時点における版
盧 綸(ろ りん、737年? - 799年?)は、中国・唐の詩人。字は允言(いんげん)。河中府蒲州河東県(現在の山西省運城市永済市)の人。本貫は范陽郡涿県。孫は盧弼(盧汝弼)。
略歴
安禄山の乱を避けて鄱陽(現在の江西省上饒市鄱陽県)に移住し、大暦初年(767年頃)には都へ出て科挙を受験したが、何度も落第した。しかし宰相の元載に才能を認められて、閿郷(現在の河南省三門峡市霊宝市)の尉から検校戸部郎中・監察御史となり、病気のため辞職して家へ帰った。その後、河中府を治めていた渾瑊に招かれて幕下に入り、さらに徳宗から都へ召されたが、出発する前に死んだ。大暦十才子の一人。
『盧戸部詩集』10巻が残っている。