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北魏の武功郡[[太守]]の蘇協の子として生まれた。[[正光]]年間、関右で反乱が勃発すると、蘇椿は討伐軍に応募して、盪寇将軍の号を受けた。功績により奉朝請・厲威将軍・中散大夫に進み、美陽子の爵位を受け、持節・都督・平西将軍・太中大夫の位を加えられた。[[535年]]([[大統]]元年)、[[西魏]]が建国されると、蘇椿は鎮東将軍・金紫光禄大夫の位を受け、賀蘭氏の姓を賜った。[[538年]](大統4年)、[[武都郡]]太守として出向した。後に[[西夏州]]長史に転じ、帥都督に任じられ、行[[弘農郡]]事をつとめた。 |
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子の蘇植が後を嗣いだ。 |
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2020年8月11日 (火) 03:46時点における最新版
蘇 椿(そ ちん、生年不詳 - 563年)は、中国の北魏末から北周にかけての官僚・軍人。字は令欽。本貫は武功郡。
経歴
[編集]北魏の武功郡太守の蘇協の子として生まれた。正光年間、関右で反乱が勃発すると、蘇椿は討伐軍に応募して、盪寇将軍の号を受けた。功績により奉朝請・厲威将軍・中散大夫に進み、美陽子の爵位を受け、持節・都督・平西将軍・太中大夫の位を加えられた。535年(大統元年)、西魏が建国されると、蘇椿は鎮東将軍・金紫光禄大夫の位を受け、賀蘭氏の姓を賜った。538年(大統4年)、武都郡太守として出向した。後に西夏州長史に転じ、帥都督に任じられ、行弘農郡事をつとめた。
548年(大統14年)、槃頭郡の氐族を撃破して功績を挙げ、散騎常侍の位を受け、大都督の任を加えられた。550年(大統16年)、楊忠の下で南朝梁の隨郡を攻撃し、凱旋すると、武功郡太守に任じられた。ほどなく使持節・車騎大将軍・儀同三司の位を受け、爵位を侯に進めた。560年(武成2年)、驃騎大将軍・開府儀同三司・大都督に進んだ。563年(保定3年)、死去した。
子の蘇植が後を嗣いだ。