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「長孫観」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
長孫抗(㼚)の子として生まれた。若くして勇名で知られた。祖父の[[長孫道生]]の爵位を嗣いで上党王となった。当時、北魏の異姓の諸王は公に降封される者が多かったが、祖父の先朝での功績により、特に降封されなかった。[[470年]]([[皇興]]4年)、征西大将軍・仮[[司空]]・督河西七鎮諸軍となり、[[吐谷渾]]を討って、[[拾寅]]を曼頭山で撃破し、その居城を焼いて凱旋した。[[孝文帝]]の初年、殿中尚書・[[侍中]]に任じられた。[[473年]]([[延興 (北魏)|延興]]3年)、再び仮司空として吐谷渾を討ち、これを屈服させた。この年の冬、武都[[テイ (民族)|氐]]が[[仇池]]を攻撃すると、長孫観は吐谷渾から軍を返して氐を討った。後に征南大将軍となった。死去すると、[[諡]]は定といった。雲中金陵に陪葬された。
長孫抗(㼚)の子として生まれた。若くして勇名で知られた。祖父の[[長孫道生]]の爵位を嗣いで上党王となった。当時、北魏の異姓の諸王は公に降封される者が多かったが、祖父の先朝での功績により、特に降封されなかった。[[470年]]([[皇興]]4年)、征西大将軍・仮[[司空]]・督河西七鎮諸軍となり、[[吐谷渾]]を討って、[[拾寅]]を曼頭山で撃破し、その居城を焼いて凱旋した。[[孝文帝]]の初年、殿中尚書・[[侍中]]に任じられた。[[473年]]([[延興 (北魏)|延興]]3年)、再び仮司空として吐谷渾を討ち、これを屈服させた。この年の冬、武都[[氐]]が[[仇池]]を攻撃すると、長孫観は吐谷渾から軍を返して氐を討った。後に征南大将軍となった。死去すると、[[諡]]は定といった。雲中金陵に陪葬された。


子の[[長孫稚]]が上党王の爵位を嗣いだ。
子の[[長孫稚]]が上党王の爵位を嗣いだ。

2020年8月11日 (火) 03:45時点における版

長孫 観(ちょうそん かん、生没年不詳)は、北魏軍人本貫代郡

経歴

長孫抗(㼚)の子として生まれた。若くして勇名で知られた。祖父の長孫道生の爵位を嗣いで上党王となった。当時、北魏の異姓の諸王は公に降封される者が多かったが、祖父の先朝での功績により、特に降封されなかった。470年皇興4年)、征西大将軍・仮司空・督河西七鎮諸軍となり、吐谷渾を討って、拾寅を曼頭山で撃破し、その居城を焼いて凱旋した。孝文帝の初年、殿中尚書・侍中に任じられた。473年延興3年)、再び仮司空として吐谷渾を討ち、これを屈服させた。この年の冬、武都仇池を攻撃すると、長孫観は吐谷渾から軍を返して氐を討った。後に征南大将軍となった。死去すると、は定といった。雲中金陵に陪葬された。

子の長孫稚が上党王の爵位を嗣いだ。

伝記資料