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[[439年]](元嘉16年)、[[建康 (都城)|建康県]]令に転じた。尚書中兵郎に任じられ、再び建康県令となった。吏部尚書の[[沈演之]]がたびたび[[文帝 (南朝宋)|文帝]]の前で秀之のことを称賛した。[[445年]](元嘉22年)、武陵王[[孝武帝 (南朝宋)|劉駿]]が[[雍州]][[刺史]]となって[[襄州区|襄陽]]に駐屯すると、秀之はその下で撫軍録事参軍・襄陽県令となった。劉駿の命により襄陽の六門堰を修復して、良田を回復した。参軍のまま広平郡太守の兼任に改められた。[[448年]](元嘉25年)、督梁南北秦三州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられた。
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[[450年]](元嘉27年)、文帝が[[北伐]]をおこなうと、[[楊文徳]]や劉弘宗らが秀之の下について[[関中]]に進攻した。秀之は錫千秋に2000人を与えて子午谷の南口に向かわせ、竺宗之に3000人を与えて駱谷の南口に向かわせ、梁尋に1000人を与えて斜谷の南口に向かわせた。[[テイ (民族)|氐]]の楊高が進攻してくると、秀之はこれを討って、楊高兄弟を斬った。[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が文帝を殺害すると、秀之は報を聞いてその日のうちに起兵し、兵を率いて襄陽に向かおうとしたが、南譙王[[劉義宣]]にはばまれた。劉劭の乱が平定されると、秀之は使持節・督益寧二州諸軍事・寧朔将軍・[[益州]]刺史に任じられた。
[[450年]](元嘉27年)、文帝が[[北伐]]をおこなうと、[[楊文徳]]や劉弘宗らが秀之の下について[[関中]]に進攻した。秀之は錫千秋に2000人を与えて子午谷の南口に向かわせ、竺宗之に3000人を与えて駱谷の南口に向かわせ、梁尋に1000人を与えて斜谷の南口に向かわせた。[[氐]]の楊高が進攻してくると、秀之はこれを討って、楊高兄弟を斬った。[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が文帝を殺害すると、秀之は報を聞いてその日のうちに起兵し、兵を率いて襄陽に向かおうとしたが、南譙王[[劉義宣]]にはばまれた。劉劭の乱が平定されると、秀之は使持節・督益寧二州諸軍事・寧朔将軍・[[益州]]刺史に任じられた。


[[454年]]([[孝建]]元年)、南譙王劉義宣が[[荊州]]で反乱を起こし、参軍の王曜を秀之のもとに派遣して徴兵させようとした。秀之はその日のうちに王曜を斬って戒厳を布いた。中兵参軍の韋山松に1万人を与えて[[荊州区|江陵]]を攻撃させるべく、[[三峡]]に進出させた。韋山松は席天生を撃破したが、江陵で[[魯爽]]に敗れて殺害された。この年のうちに、秀之は征虜将軍の号を受け、督を監に改められ、康楽県侯に封じられた。[[455年]](孝建2年)、監[[郢州]]諸軍事・郢州刺史に転じた。
[[454年]]([[孝建]]元年)、南譙王劉義宣が[[荊州]]で反乱を起こし、参軍の王曜を秀之のもとに派遣して徴兵させようとした。秀之はその日のうちに王曜を斬って戒厳を布いた。中兵参軍の韋山松に1万人を与えて[[荊州区|江陵]]を攻撃させるべく、[[三峡]]に進出させた。韋山松は席天生を撃破したが、江陵で[[魯爽]]に敗れて殺害された。この年のうちに、秀之は征虜将軍の号を受け、督を監に改められ、康楽県侯に封じられた。[[455年]](孝建2年)、監[[郢州]]諸軍事・郢州刺史に転じた。

2020年8月11日 (火) 03:45時点における版

劉秀之(りゅう しゅうし、397年 - 464年)は、南朝宋官僚軍人は道宝。本貫東莞郡莒県

経歴

劉仲道の子として生まれた。幼くして父を失い、貧困の中で成長した。10歳のころ、子どもたちが前渚で遊んでいたとき、突然に大蛇が現れて襲ってきた。驚かない者はなかったが、秀之はひとり動揺せず、みなと態度が異なっていた。何承天が秀之の器量を知って、その娘を妻にめあわせた。兄の劉欽之が朱齢石の下で右軍参軍をつとめていたが、朱齢石に従って敗死すると、秀之は哀しみに沈んで、10年のあいだ歓宴することがなかった。424年景平2年)、駙馬都尉・奉朝請に任じられた。家が貧しかったため、広陵郡丞の任を求めた。元嘉初年、江夏王劉義恭の下で撫軍行参軍となった。429年(元嘉6年)以降、彭城王劉義康の下に転じて平北行参軍となり、無錫県令・陽羨県令・烏程県令を歴任して、有能で知られた。

439年(元嘉16年)、建康県令に転じた。尚書中兵郎に任じられ、再び建康県令となった。吏部尚書の沈演之がたびたび文帝の前で秀之のことを称賛した。445年(元嘉22年)、武陵王劉駿雍州刺史となって襄陽に駐屯すると、秀之はその下で撫軍録事参軍・襄陽県令となった。劉駿の命により襄陽の六門堰を修復して、良田を回復した。参軍のまま広平郡太守の兼任に改められた。448年(元嘉25年)、督梁南北秦三州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられた。

450年(元嘉27年)、文帝が北伐をおこなうと、楊文徳や劉弘宗らが秀之の下について関中に進攻した。秀之は錫千秋に2000人を与えて子午谷の南口に向かわせ、竺宗之に3000人を与えて駱谷の南口に向かわせ、梁尋に1000人を与えて斜谷の南口に向かわせた。の楊高が進攻してくると、秀之はこれを討って、楊高兄弟を斬った。453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害すると、秀之は報を聞いてその日のうちに起兵し、兵を率いて襄陽に向かおうとしたが、南譙王劉義宣にはばまれた。劉劭の乱が平定されると、秀之は使持節・督益寧二州諸軍事・寧朔将軍・益州刺史に任じられた。

454年孝建元年)、南譙王劉義宣が荊州で反乱を起こし、参軍の王曜を秀之のもとに派遣して徴兵させようとした。秀之はその日のうちに王曜を斬って戒厳を布いた。中兵参軍の韋山松に1万人を与えて江陵を攻撃させるべく、三峡に進出させた。韋山松は席天生を撃破したが、江陵で魯爽に敗れて殺害された。この年のうちに、秀之は征虜将軍の号を受け、督を監に改められ、康楽県侯に封じられた。455年(孝建2年)、監郢州諸軍事・郢州刺史に転じた。

457年大明元年)、建康に召還されて右衛将軍となった。458年(大明2年)、丹陽尹に転じた。459年(大明3年)4月、竟陵王劉誕が反乱を起こすと、秀之は東城に入って防衛にあたった。7月、尚書右僕射に任じられた。460年(大明4年)、律令の改定に参与し、民が官吏を殺害した場合の罪について意見して容れられた。461年(大明5年)、太子右衛率を兼ねた。

雍州刺史の海陵王劉休茂が反乱を起こし、現地の軍に殺害されると、秀之は本官のまま襄陽に派遣され、軍を慰労し、反乱に加担した者とそうでない者を分けて処置した。事後処理を終えて建康に帰ると、使持節・散騎常侍・都督雍梁南北秦四州郢州之竟陵隨二郡諸軍事・安北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に任じられた。孝武帝は新亭に巡幸すると、秀之を召還して尚書左僕射に任じようとしたが、その人事は行われないまま、464年(大明8年)1月に秀之は死去した。享年は68。侍中司空の位を追贈された。は忠成公といった。

子の劉景遠が後を嗣ぎ、前軍将軍に上った。

伝記資料