コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「范柏年」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
2行目: 2行目:


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[華陽郡]]で代々土豪をつとめる家に生まれ、[[梁州]]で名を知られた。宋の[[泰始 (南朝宋)|泰始]]年間、[[テイ (民族)|氐]]が[[晋寿郡]]を攻撃して交通を遮断すると、柏年は倉部郎として仮節を受け、数百人を率いて交通を確保し、益州道から[[建康 (都城)|建康]]の朝廷に報告した。晋寿郡[[太守]]に任じられた。柏年は晋寿郡の李烏奴を降伏させ、氐の楊城・蘇道熾らを討ち平らげた。[[476年]]([[元徽 (南朝宋)|元徽]]4年)、梁南秦二州[[刺史]]に任じられた。[[477年]]([[昇明]]元年)、[[沈攸之]]の乱が起こると、柏年は朝廷の援軍を名目に陰広宗を[[魏興郡]]に進出させ、戦況を様子見させた。[[479年]](昇明3年)、朝廷は[[王玄邈]]を新たな梁南秦二州刺史として派遣したが、柏年は李烏奴の勧めを容れて漢中に拠ったまま命を受けなかった。王玄邈がやってくると、柏年は遅ればせながら魏興郡に移ったが、召還に応じようとはしなかった。同年([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、斉の南郡王[[蕭長懋]]は柏年が兵乱が起こすことを憂慮して、使者を派遣して柏年を説得した。柏年は府長史に任じられ、襄陽に出頭したところを捕らえられて処刑された。
[[華陽郡]]で代々土豪をつとめる家に生まれ、[[梁州]]で名を知られた。宋の[[泰始 (南朝宋)|泰始]]年間、[[氐]]が[[晋寿郡]]を攻撃して交通を遮断すると、柏年は倉部郎として仮節を受け、数百人を率いて交通を確保し、益州道から[[建康 (都城)|建康]]の朝廷に報告した。晋寿郡[[太守]]に任じられた。柏年は晋寿郡の李烏奴を降伏させ、氐の楊城・蘇道熾らを討ち平らげた。[[476年]]([[元徽 (南朝宋)|元徽]]4年)、梁南秦二州[[刺史]]に任じられた。[[477年]]([[昇明]]元年)、[[沈攸之]]の乱が起こると、柏年は朝廷の援軍を名目に陰広宗を[[魏興郡]]に進出させ、戦況を様子見させた。[[479年]](昇明3年)、朝廷は[[王玄邈]]を新たな梁南秦二州刺史として派遣したが、柏年は李烏奴の勧めを容れて漢中に拠ったまま命を受けなかった。王玄邈がやってくると、柏年は遅ればせながら魏興郡に移ったが、召還に応じようとはしなかった。同年([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、斉の南郡王[[蕭長懋]]は柏年が兵乱が起こすことを憂慮して、使者を派遣して柏年を説得した。柏年は府長史に任じられ、襄陽に出頭したところを捕らえられて処刑された。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月11日 (火) 03:44時点における版

范柏年(はん はくねん、? - 479年)は、南朝宋からにかけての人物。本貫梓潼郡

経歴

華陽郡で代々土豪をつとめる家に生まれ、梁州で名を知られた。宋の泰始年間、晋寿郡を攻撃して交通を遮断すると、柏年は倉部郎として仮節を受け、数百人を率いて交通を確保し、益州道から建康の朝廷に報告した。晋寿郡太守に任じられた。柏年は晋寿郡の李烏奴を降伏させ、氐の楊城・蘇道熾らを討ち平らげた。476年元徽4年)、梁南秦二州刺史に任じられた。477年昇明元年)、沈攸之の乱が起こると、柏年は朝廷の援軍を名目に陰広宗を魏興郡に進出させ、戦況を様子見させた。479年(昇明3年)、朝廷は王玄邈を新たな梁南秦二州刺史として派遣したが、柏年は李烏奴の勧めを容れて漢中に拠ったまま命を受けなかった。王玄邈がやってくると、柏年は遅ればせながら魏興郡に移ったが、召還に応じようとはしなかった。同年(建元元年)、斉の南郡王蕭長懋は柏年が兵乱が起こすことを憂慮して、使者を派遣して柏年を説得した。柏年は府長史に任じられ、襄陽に出頭したところを捕らえられて処刑された。

伝記資料