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'''焦度'''(しょう たく、[[423年]] - [[483年]])は、[[宋 (南朝)|南朝宋]]から[[斉 (南朝)|斉]]にかけての[[軍人]]。[[字]]は文続、あるいは文績。[[本貫]]は[[南安郡]]。[[氐]]の出身。 |
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== 経歴 == |
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2020年8月11日 (火) 03:44時点における版
焦度(しょう たく、423年 - 483年)は、南朝宋から斉にかけての軍人。字は文続、あるいは文績。本貫は南安郡。氐の出身。
経歴
祖父の焦文珪のときに、襄陽に避難した。宋の元嘉年間に、天水郡略陽県が僑県として立てられると、焦氏の一族はこれに属した。焦度は宋に仕えて、北館客に任じられた。458年(大明2年)、顔師伯が青州刺史として赴任すると、焦度は幢主として顔師伯のもとに送られた。北魏が青州に侵攻してくると、焦度は軍を率いて沙溝杜梁で魏軍と戦って撃破した。顔師伯の下で輔国府参軍となった。北魏の天水公封敕文が清口に侵攻してくると、焦度は軍を率いて救援し、北魏の騎将豹皮公を刺して落馬させ、その武装を鹵獲したほか、数十人を殺害した。顔師伯が焦度の武功を孝武帝に報告すると、孝武帝は焦度を建康に召還して側近に仕えさせた。孝武帝は焦度の身なりが黒く壮健なのを見て、「真の健物なり」と評した。焦度は西陽王撫軍長兼行参軍に任じられた。ついで晋安王劉子勛の下で夾轂隊主に任じられ、江州に駐屯した。
465年(泰始元年)、劉子勛が起兵すると、焦度はその下で龍驤将軍となり、3000人を率いて先鋒をつとめ、赭圻に駐屯した。明帝の派遣した軍と戦って、たびたび勝利を上げた。466年(泰始2年)、劉子勛が敗死すると、焦度は宮亭湖に逃げ込んで反抗をつづけた。宋の朝廷は江州刺史の王景文に命じて焦度を招降させた。焦度が部下を率いて出頭すると、王景文の下で鎮南参軍となった。まもなく中直兵を兼ね、王景文に厚遇された。470年(泰始6年)、王景文に従って建康に帰り、王景文に仕えつづけた。472年(泰豫元年)、王景文のもとに毒薬が送られて死を命じられた。焦度は激怒して、命令を拒むよう王景文に勧めたが、王景文は従わずに死去した。焦度の発言は明帝に知られることがなかった。焦度は晋熙王劉燮の下で防閣に任じられ、征虜鎧曹行参軍となり、夏口に駐屯した。477年(昇明元年)、武陵王劉賛が劉燮に代わって郢州刺史となると、焦度は夏口に留まって、劉賛の下で前軍参軍となった。
沈攸之の乱が起こると、焦度は中直兵に転じ、寧朔将軍・軍主の位を加えられた。蕭道成により仮の輔国将軍の号を受け、屯騎校尉に任じられた。沈攸之の軍が夏口の周辺まで到達し、郢州を牽制する部隊を残して、沈攸之の本軍は建康へ東下しようとした。焦度は夏口の城楼の上から沈攸之を揶揄する発言を投げかけ、かれの体型を侮辱するポーズを取るにいたって、沈攸之は激怒して攻城に方針を変えた。焦度は自ら奮戦し、沈攸之は多勢にまかせて城壁を登らせようとしたが、焦度が汚物を投げつけさせたので、沈攸之の軍は城を落とすことができず、このため夏口の城楼は「焦度楼」と呼ばれるようになった。478年(昇明2年)、沈攸之の乱が平定されると、焦度は功績により後軍将軍の位を受け、東昌県子に封じられ、東宮直閤将軍となった。焦度の性格は木訥で、蕭道成がかれを州刺史として任用しようと引見したが、顔色が変わって一語も話すことができなかった。蕭道成は民政に向かないと判断して、刺史として任用するのを取りやめた。482年(建元4年)、焦度は淮陵郡太守に任じられた。焦度は朝廷の貴戚に対してよく郢州での戦功を自慢した。飲酒を好んで、酔って暴れることがあったが、蕭道成が人を派遣してなだめさせた。年は老いても、気力は若いままであった。まもなく游撃将軍の位を受けた。483年(永明元年)、死去した。享年は61。輔国将軍・梁秦二州刺史の位を追贈された。
子の焦世栄は、斉の永明年間に巴東王防閣となったが、蕭子響の乱が起こると雍州に避難し、後に始興中兵参軍となった。