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「薛初古抜」の版間の差分

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== 生涯 ==
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[[薛謹]]の長男として生まれた。[[太武帝]]により初古抜の名を賜った。[[445年]]([[太平真君]]6年)、盧水胡の[[蓋呉]]が[[関中]]で反乱を起こし、[[薛永宗]]が[[汾水]]のほとりに拠って蓋呉と結んだ。翌年、太武帝が親征して薛永宗を包囲すると、初古抜は郷里の兵を集めて蓋呉と薛永宗の間の連絡を遮断した。反乱が鎮圧されると、初古抜は中散の位を受け、永康侯の爵位を受けた。[[450年]](太平真君11年)、太武帝が[[宋 (南朝)|南朝宋]]に対して親征すると、初古抜は従軍して都将となった。翌年、[[長江]]の線まで進軍して帰還した。[[462年]]([[和平 (北魏)|和平]]3年)、[[陸真]]とともに[[テイ (民族)|氐]]の仇傉檀・強免生らを討った。[[469年]]([[皇興]]3年)、散騎常侍の位を受け、西河長公主を妻に迎え、駙馬都尉となった。この年、族叔で宋の[[徐州]][[刺史]]の[[薛安都]]が北魏に帰順すると、初古抜は彭城におもむいて薛安都を迎えた。冠軍将軍・[[南豫州]]刺史に任じられた。[[472年]]([[延興]]2年)、鎮西大将軍・開府の位を受け、爵位は平陽公に進んだ。[[482年]]([[太和 (北魏)|太和]]6年)、河東公に改封された。[[484年]](太和8年)3月、突然の病のために死去した。享年は58。左光禄大夫の位を追贈された。[[諡]]は康といった。
[[薛謹]]の長男として生まれた。[[太武帝]]により初古抜の名を賜った。[[445年]]([[太平真君]]6年)、盧水胡の[[蓋呉]]が[[関中]]で反乱を起こし、[[薛永宗]]が[[汾水]]のほとりに拠って蓋呉と結んだ。翌年、太武帝が親征して薛永宗を包囲すると、初古抜は郷里の兵を集めて蓋呉と薛永宗の間の連絡を遮断した。反乱が鎮圧されると、初古抜は中散の位を受け、永康侯の爵位を受けた。[[450年]](太平真君11年)、太武帝が[[宋 (南朝)|南朝宋]]に対して親征すると、初古抜は従軍して都将となった。翌年、[[長江]]の線まで進軍して帰還した。[[462年]]([[和平 (北魏)|和平]]3年)、[[陸真]]とともに[[氐]]の仇傉檀・強免生らを討った。[[469年]]([[皇興]]3年)、散騎常侍の位を受け、西河長公主を妻に迎え、駙馬都尉となった。この年、族叔で宋の[[徐州]][[刺史]]の[[薛安都]]が北魏に帰順すると、初古抜は彭城におもむいて薛安都を迎えた。冠軍将軍・[[南豫州]]刺史に任じられた。[[472年]]([[延興]]2年)、鎮西大将軍・開府の位を受け、爵位は平陽公に進んだ。[[482年]]([[太和 (北魏)|太和]]6年)、河東公に改封された。[[484年]](太和8年)3月、突然の病のために死去した。享年は58。左光禄大夫の位を追贈された。[[諡]]は康といった。


== 子女 ==
== 子女 ==

2020年8月11日 (火) 03:44時点における版

薛 初古抜(せつ しょこばつ、427年 - 484年)は、北魏軍人。またの名は車輅抜。もとの名は洪祚。本貫河東郡汾陰県

生涯

薛謹の長男として生まれた。太武帝により初古抜の名を賜った。445年太平真君6年)、盧水胡の蓋呉関中で反乱を起こし、薛永宗汾水のほとりに拠って蓋呉と結んだ。翌年、太武帝が親征して薛永宗を包囲すると、初古抜は郷里の兵を集めて蓋呉と薛永宗の間の連絡を遮断した。反乱が鎮圧されると、初古抜は中散の位を受け、永康侯の爵位を受けた。450年(太平真君11年)、太武帝が南朝宋に対して親征すると、初古抜は従軍して都将となった。翌年、長江の線まで進軍して帰還した。462年和平3年)、陸真とともにの仇傉檀・強免生らを討った。469年皇興3年)、散騎常侍の位を受け、西河長公主を妻に迎え、駙馬都尉となった。この年、族叔で宋の徐州刺史薛安都が北魏に帰順すると、初古抜は彭城におもむいて薛安都を迎えた。冠軍将軍・南豫州刺史に任じられた。472年延興2年)、鎮西大将軍・開府の位を受け、爵位は平陽公に進んだ。482年太和6年)、河東公に改封された。484年(太和8年)3月、突然の病のために死去した。享年は58。左光禄大夫の位を追贈された。は康といった。

子女

伝記資料