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[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[廬江郡]][[太守]]の劉宗之の子として生まれた。群書を渉猟し、人との交際を好んで、酒は一石ほど飲んでも乱れなかった。[[太安 (北魏)|太安]]年間、姉の夫の李嶷とともに北魏に帰順し、易陽子の爵位を受けた。南部主書に抜擢され、任職をもって号された。
[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[廬江郡]][[太守]]の劉宗之の子として生まれた。群書を渉猟し、人との交際を好んで、酒は一石ほど飲んでも乱れなかった。[[太安 (北魏)|太安]]年間、姉の夫の李嶷とともに北魏に帰順し、易陽子の爵位を受けた。南部主書に抜擢され、任職をもって号された。


ときに[[北地郡]]の[[羌]]族数万家は、北魏の[[刺史]]や太守の統制を受けず、朝廷の懸案になっていた。劉藻が北地郡太守として赴任すると、羌族たちを帰順させて、戸籍に編入させ、賦税を納めさせるようにした。[[テイ (民族)|氐]]族の豪族の徐成・楊黒らが雍城鎮の鎮将を追放したため、代わりに劉藻が龍驤将軍・雍城鎮将として赴任した。鎮に到着すると、徐成・楊黒らを捕らえて斬った。雍州の王叔保ら300人が劉藻を騃奴戍主とするよう請願したため、朝廷はこれを許可した。在任すること8年、離城鎮将に転出した。
ときに[[北地郡]]の[[羌]]族数万家は、北魏の[[刺史]]や太守の統制を受けず、朝廷の懸案になっていた。劉藻が北地郡太守として赴任すると、羌族たちを帰順させて、戸籍に編入させ、賦税を納めさせるようにした。[[氐]]族の豪族の徐成・楊黒らが雍城鎮の鎮将を追放したため、代わりに劉藻が龍驤将軍・雍城鎮将として赴任した。鎮に到着すると、徐成・楊黒らを捕らえて斬った。雍州の王叔保ら300人が劉藻を騃奴戍主とするよう請願したため、朝廷はこれを許可した。在任すること8年、離城鎮将に転出した。


[[太和 (北魏)|太和]]年間、[[岐州]]刺史に任じられた。また[[秦州]]刺史に転じた。秦州では官吏が殺害されたり、納税が拒否されたりする事件が多発して、太守や県令が治所の郡県に立ち入れない状況であった。劉藻は信賞必罰を徹底し、専横する豪族たちを処刑しつくしたため、羌族や氐族たちは劉藻を畏れて服従し、太守や県令たちが治所に入ることができるようになった。[[孝文帝]]が南征を開始すると、劉藻は東道都督となった。秦州の治安がまた混乱したため、秦州に帰るよう命じられると、秦州の情勢は落ち着いた。安南将軍[[元英]]とともに[[漢中郡|漢中]]を攻撃し、[[斉 (南朝)|南朝斉]]の軍を撃破した。[[梁州]]を平定しようとしたが、軍の帰還を命じられたため、梁州の平定はかなわなかった。
[[太和 (北魏)|太和]]年間、[[岐州]]刺史に任じられた。また[[秦州]]刺史に転じた。秦州では官吏が殺害されたり、納税が拒否されたりする事件が多発して、太守や県令が治所の郡県に立ち入れない状況であった。劉藻は信賞必罰を徹底し、専横する豪族たちを処刑しつくしたため、羌族や氐族たちは劉藻を畏れて服従し、太守や県令たちが治所に入ることができるようになった。[[孝文帝]]が南征を開始すると、劉藻は東道都督となった。秦州の治安がまた混乱したため、秦州に帰るよう命じられると、秦州の情勢は落ち着いた。安南将軍[[元英]]とともに[[漢中郡|漢中]]を攻撃し、[[斉 (南朝)|南朝斉]]の軍を撃破した。[[梁州]]を平定しようとしたが、軍の帰還を命じられたため、梁州の平定はかなわなかった。

2020年8月11日 (火) 03:44時点における版

劉 藻(りゅう そう、434年 - 500年)は、北魏軍人官僚は彦先。本貫広平郡易陽県

生涯

南朝宋廬江郡太守の劉宗之の子として生まれた。群書を渉猟し、人との交際を好んで、酒は一石ほど飲んでも乱れなかった。太安年間、姉の夫の李嶷とともに北魏に帰順し、易陽子の爵位を受けた。南部主書に抜擢され、任職をもって号された。

ときに北地郡族数万家は、北魏の刺史や太守の統制を受けず、朝廷の懸案になっていた。劉藻が北地郡太守として赴任すると、羌族たちを帰順させて、戸籍に編入させ、賦税を納めさせるようにした。族の豪族の徐成・楊黒らが雍城鎮の鎮将を追放したため、代わりに劉藻が龍驤将軍・雍城鎮将として赴任した。鎮に到着すると、徐成・楊黒らを捕らえて斬った。雍州の王叔保ら300人が劉藻を騃奴戍主とするよう請願したため、朝廷はこれを許可した。在任すること8年、離城鎮将に転出した。

太和年間、岐州刺史に任じられた。また秦州刺史に転じた。秦州では官吏が殺害されたり、納税が拒否されたりする事件が多発して、太守や県令が治所の郡県に立ち入れない状況であった。劉藻は信賞必罰を徹底し、専横する豪族たちを処刑しつくしたため、羌族や氐族たちは劉藻を畏れて服従し、太守や県令たちが治所に入ることができるようになった。孝文帝が南征を開始すると、劉藻は東道都督となった。秦州の治安がまた混乱したため、秦州に帰るよう命じられると、秦州の情勢は落ち着いた。安南将軍元英とともに漢中を攻撃し、南朝斉の軍を撃破した。梁州を平定しようとしたが、軍の帰還を命じられたため、梁州の平定はかなわなかった。

後にまた孝文帝が南征すると、劉藻は征虜将軍となり、統軍の高聡ら四軍を率いて東道別将となった。敗戦すると、平州に流された。500年景明元年)、旧功により太尉司馬として再び任用された。この年の6月に死去した。享年は67。

子の劉紹珍は、河北郡黎陽郡の太守をつとめたが治績がなく、東魏天平年間に反乱を起こして処刑された。

伝記資料