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[[北魏]]の武衛将軍の達奚顕相の子として生まれた。給事中を初任とし、冠軍将軍を加えられた。[[532年]]、[[都督]]に任ぜられ、弘農に駐屯した。後に[[関中]]にうつり、臨汾県伯に封ぜられた。大行台郎中に転じ、行台郎中とともに[[潼関]]に駐屯した。潼関が陥落すると、大都督の[[陽猛]]とともに[[東魏]]軍と戦った。[[宇文泰]]の下で[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑で戦って、いずれも奮戦して功績を挙げ、車騎将軍・左光禄大夫の位を加えられた。[[547年]]、大行台郎中・相府掾に任ぜられ、従事中郎に転じた。大都督・持節・通直散騎常侍に累進した。[[553年]]、中外府司馬に任ぜられた。
[[北魏]]の武衛将軍の達奚顕相の子として生まれた。給事中を初任とし、冠軍将軍を加えられた。[[532年]]、[[都督]]に任ぜられ、弘農に駐屯した。後に[[関中]]にうつり、臨汾県伯に封ぜられた。大行台郎中に転じ、行台郎中とともに[[潼関]]に駐屯した。潼関が陥落すると、大都督の[[陽猛]]とともに[[東魏]]軍と戦った。[[宇文泰]]の下で[[竇泰]]を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑で戦って、いずれも奮戦して功績を挙げ、車騎将軍・左光禄大夫の位を加えられた。[[547年]]、大行台郎中・相府掾に任ぜられ、従事中郎に転じた。大都督・持節・通直散騎常侍に累進した。[[553年]]、中外府司馬に任ぜられた。


西魏軍が蜀に遠征すると、達奚寔は行南岐州事をつとめ、都督軍糧を兼ねた。[[テイ (民族)|山氐]]に賦役を供出させ、西魏軍の糧食を供給させた。[[長安]]に召還されると、司馬となった。[[556年]]、六官が建てられると、蕃部中大夫の位を受け、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は平陽県公に進んだ。[[560年]]、御正中大夫に任ぜられ、民部を管轄し、[[宇文護]]の司馬を兼ねた。[[561年]]、文州刺史として出向し、文州で死去した。文康二州刺史の位を追贈された。[[諡]]を恭といった。
西魏軍が蜀に遠征すると、達奚寔は行南岐州事をつとめ、都督軍糧を兼ねた。[[|山氐]]に賦役を供出させ、西魏軍の糧食を供給させた。[[長安]]に召還されると、司馬となった。[[556年]]、六官が建てられると、蕃部中大夫の位を受け、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は平陽県公に進んだ。[[560年]]、御正中大夫に任ぜられ、民部を管轄し、[[宇文護]]の司馬を兼ねた。[[561年]]、文州刺史として出向し、文州で死去した。文康二州刺史の位を追贈された。[[諡]]を恭といった。


子の達奚豊が後を嗣いだ。
子の達奚豊が後を嗣いだ。

2020年8月11日 (火) 03:43時点における版

達奚 寔(たつけい しょく、513年 - 561年)は、中国西魏北周軍人は什伏代。本貫代郡

生涯

北魏の武衛将軍の達奚顕相の子として生まれた。給事中を初任とし、冠軍将軍を加えられた。532年都督に任ぜられ、弘農に駐屯した。後に関中にうつり、臨汾県伯に封ぜられた。大行台郎中に転じ、行台郎中とともに潼関に駐屯した。潼関が陥落すると、大都督の陽猛とともに東魏軍と戦った。宇文泰の下で竇泰を捕らえ、弘農を奪回し、沙苑で戦って、いずれも奮戦して功績を挙げ、車騎将軍・左光禄大夫の位を加えられた。547年、大行台郎中・相府掾に任ぜられ、従事中郎に転じた。大都督・持節・通直散騎常侍に累進した。553年、中外府司馬に任ぜられた。

西魏軍が蜀に遠征すると、達奚寔は行南岐州事をつとめ、都督軍糧を兼ねた。山氐に賦役を供出させ、西魏軍の糧食を供給させた。長安に召還されると、司馬となった。556年、六官が建てられると、蕃部中大夫の位を受け、驃騎大将軍・開府儀同三司を加えられ、爵位は平陽県公に進んだ。560年、御正中大夫に任ぜられ、民部を管轄し、宇文護の司馬を兼ねた。561年、文州刺史として出向し、文州で死去した。文康二州刺史の位を追贈された。を恭といった。

子の達奚豊が後を嗣いだ。

伝記資料

  • 周書』巻二十九 列伝第二十一
  • 北史』巻六十六 列伝第五十四