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「カム (チベット)」の版間の差分

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== 地理 ==
== 地理 ==
カムは[[四川盆地]]より西にあり、地形は起伏が激しい事が特徴。この地にある褶曲山脈は[[横断山脈]]と総称される。[[大雪山脈]]や[[邛崍山脈]]など、海抜 5,000 メートルから 7,000 メートルに達するゴツゴツした山脈が北西から南東へと平行に走り、その間に人々の住む谷間がある。[[メコン川]]、[[揚子江]]、[[雅ロウ江|雅礱江]]と[[サルウィン川]]を含む多数の大河の上流が、カムの中を流れる。
カムは[[四川盆地]]より西にあり、地形は起伏が激しい事が特徴。この地にある褶曲山脈は[[横断山脈]]と総称される。[[大雪山脈]]や[[邛崍山脈]]など、海抜 5,000 メートルから 7,000 メートルに達するゴツゴツした山脈が北西から南東へと平行に走り、その間に人々の住む谷間がある。[[メコン川]]、[[揚子江]]、[[雅礱江]]と[[サルウィン川]]を含む多数の大河の上流が、カムの中を流れる。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月10日 (月) 10:37時点における版

カムの位置

カム (チベット語: ཁམས khams中国語: 拼音: Kāng) はチベットの東部地方。代中国の地理史料では、アムドとともに「吐蕃」の「朶甘」と一括して呼ばれた。現在は中華人民共和国チベット自治区東部・青海省東南部・四川省西部・雲南省北西部に分割されている。東部のダルツェンド(康定)と、西部のチャムドが中心的都市である。この地方の住民はチベット語で「カムパ(=「カムの人」の意)」と称する。外国文献の一部には、これを民族名と理解して「カムパ族」と表記する例が見られる。

歴史

吐蕃の建国以前

吐蕃王朝期(〜842)

中世期(9世紀〜17世紀前半)

ダライラマ政権の成立から「雍正のチベット征服」まで(1640-1724)

「雍正のチベット分割」(1724-1732)

1724年、清朝がグシ・ハン王家の内紛に乗じてチベットを征服した際、従来グシ・ハン王朝に服属していたカム地方の諸侯は、ダライラマ領(西蔵)、四川、雲南、青海の各地に分属させられ、分割統治をうけることとなった(雍正のチベット分割)。

主なカム諸侯の分属先は次のとおりである[1]

「中国保護下の諸国(States under the Chinese protection)」[2]

青海地方所属

  • ནང་ཆེན་རྒྱལ་པོ།ナンチェン王(嚢謙)

四川省

  • ལྕགས་ལ་རྒྱལ་པོ།チャクラ王(明正)
  • སྡེ་དགེ་རྒྱལ་པོ།デルゲ王(徳格)
  • ལྷ་ཐོ་རྒྱལ་པོ།ラト王(納奪)
  • གླིང་ཚང་རྒྱལ་པོ།リンツァン王(林葱)
  • འབའ་ཐང་སྡེ་པ།バタン=デパ(巴塘)
  • ལི་ཐང་སྡེ་པ།リタン=デパ(理塘)
  • ཧོར་ཁང་གསར་དཔོན་པོ།ホル・カンサル=ポンボ(霍爾孔沙) 
  • ཧོར་བེ་རི་དཔོན་པོ།ホル・ペリ=ポンボ(霍爾孔沙)
  • ཧོར་བྲང་འགོ་དཔོན་པོ།ホル・タンゴ=ポンボ(霍爾章谷)
  • ཧོར་འབྲེ་འོ་དཔོན་པོ།ホル・デオ=ポンボ(霍爾朱倭)
  • Hor Mazur Bonbo(霍爾麻書)
  • གསེར་ཐར་དཔོན་པོ།セルタル=ポンボ(色達)
  • ལྕགས་མདུད་དཔོན་པོ།チャンドゥ=ポンボ(瞻対)
  • ས་ངན་དཔོན་པོ།サゲン=ポンボ(三岩)
  • རྨུ་ལི་བླ་མ།ムリ=ラマ(木里)

雲南省所属

ラサ保護下の諸国(States under the protection of Lhasa)[3]

  • チャムド
  • ダクヤプ
  • リウォチェ
  • マルカム
  • コンジョ
  • ギャデ・ポンボ(三十九族)

※南東チベットのラサの諸州(all Lhasa provinces,in South East Tibet)

  • Bashu
  • ツァワロン
  • ザユル
  • ポメ
  • コンポ

19世紀以降

19世紀にはいり、カム地方ニャロン地方の領主が強力となり、父子2代にわたり、近隣の諸侯たちに征服戦争をしかけた。グンポナムギェルは1860年、清朝が四川省に所属させていた諸侯を制圧、清朝に対し、征服地の統治者としての册封を求めた。清朝はこれを拒否したが、中国の中枢部において太平天国の乱(1850-64)や英仏とのトラブルに追われていたこともあり、グンポナムギャルの支配を覆して清朝から册封を受けていた諸侯たちを旧領に復帰させる力がなく、解決をガンデンポタンに委ねた。ガンデンポタン軍はグンポナムギャルの軍を破り、1863年その本拠地ニャロンを制圧し、カム諸侯を旧領に復帰させた。争乱の舞台となった諸侯領が、四川省に所属したこともあり、ガンデンポタンは戦費を清朝に求めたが、清朝は支払い能力がなかったため、ガンデンポタンに対し、グンポナムギャルの本拠地ニャロンの領有と、デルゲ王国、ホル5公国などの支配権を認めた。ガンデンポタンは、ニャロン・チキャプ(ニャロン総督府)を設置し、プンラプ(チキャプ,総督)を派遣してこれを統治することとなった[4]

「西康省」建省をめざす中国とチベットの抗争

カムの住民

1905年、四川総督趙爾豊は、この地方をより強固に掌握するため、蜀軍を率いてカム地方に侵攻し、諸侯領やニャロン・チーキャプを廃止し、この地方にを設けようとこころみた(西康省建省運動)が、諸侯の武力抵抗を引き起こした。

1913年以降は、チベット全土の統合を目指すチベット政府と中華民国との抗争の最前線となった。 中華民国の北京政府歴代政権では、省を設置する条件がととのわないため、ながらく「特別行政区英語版」にとどまり、川辺特別区と称されていた。1928年に発足した国民政府は、名目上の領域の東部しか実効支配できないまま、1939年「西康省」を発足させた。

中国人民政府の統治下では、1950年、東部にアムド地方の一部とあわせて「西康省蔵族自治区」がもうけられ、ダライラマ政権の統治下にあった西部には昌都解放委員会が設けられた。

中国人民政府は、カム地方の西部地方を「西康省蔵族自治区」に組み込むことはせず、「昌都解放委員会」の「委員」たちを「西藏自治区籌備委員会(せいぞうじちくちゅうびいいんかい)」に参加させた。

カム反乱

カム地方の東部地方に設置された「西康省蔵族自治区」は、1955年以降、「民主改革」「社会主義改造」をこの地方に実施しようとするのにともない、ガパ州カンゼ州に分割され、四川省に組み込まれた。

ミニヤゴンカ山

「民主改革」「社会主義改造」に対する反発から、1956年以降、大規模な反乱が勃発、中国人民解放軍による鎮圧を受けた各地の抵抗軍は、西蔵に逃れて統一抗中組織チュシ・ガンドゥクを結成、西蔵を舞台としてゲリラ活動を続け、チベット政府をも巻き込むチベット動乱の引き金となった。

その後、この地方のチベット系はいくつかの民族に分割して民族識別されている。省部に近い為、漢族の入植が進んでいる。

中国によるカム地方の行政区分

チャムド市街地

中国はカム地方を35の(ゾン)や県級市市轄区に区分し、チベット自治区(1区10県)・青海省(1市1県)、四川省(1市18県)・雲南省(1市2県)に分割している。

現在の行政区分では、大まかに以下の地域がカム地方に含まれる。

地理

カムは四川盆地より西にあり、地形は起伏が激しい事が特徴。この地にある褶曲山脈は横断山脈と総称される。大雪山脈邛崍山脈など、海抜 5,000 メートルから 7,000 メートルに達するゴツゴツした山脈が北西から南東へと平行に走り、その間に人々の住む谷間がある。メコン川揚子江雅礱江サルウィン川を含む多数の大河の上流が、カムの中を流れる。

脚注

  1. ^ Teichman, 1922,pp.3-5のリストおよび地図AMI,i998, 龔蔭,1992。
  2. ^ このカテゴリーはTeichman, 1922,p.3
  3. ^ このカテゴリーはTeichman,1922,p.4による。
  4. ^ 小林 亮介, 2004、Teichman, 1922

参考文献

  • Andreas Gruschke: The Cultural Monuments of Tibet’s Outer Provinces: Kham, 2 vols., White Lotus Press, Bangkok 2004/2005, ISBN 9744800496
  • Tsering Shakya: The Dragon in the Land of Snows. A History of Modern Tibet Since 1947, London 1999, ISBN 0140196153
  • 岡田英弘(編)清朝とは何か』藤原書店、2009年5月。ISBN 978-4-89434-682-6http://www.html 
  • 丹増・張向明(主編)当代中国的西藏』当代中国出版社、1991年http://www.html 
  • 楊超(主編)当代中国的四川』中国社会科学出版社、1991年http://www.html 
  • 趙海峰(主編)当代中国的青海』中国当代出版社、1991年http://www.html 
  • 佐藤長中世チベット史研究』同朋舎、1986年3月。ISBN 4-8104-0492-7http://www.html 「ロブザンダンジンの反乱について」pp.383-423
  • 公益財団法人 国家基本問題研究所対中国戦略研究報告書:軍拡・膨張の歴史と現状(国基研論叢vol.1)』国家基本問題研究所、2011年11月http://www.html 手塚利彰「チベット問題について:ダライラマの出現とその歴史的背景」pp. pp,121-149。
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』上,甘粛人民出版社,1990
  • Teichman, Eric, Travels of a consular officer in eastern Tibet : together with a history of the relations between China, Tibet and India (1922).Cambridge, England : University Press.
  • རྒྱ་དམར་གྱི་བཙན་འོག་ཏུ་གནས་པའི་བོད་དང་ས་འབྲེལ་ཁག་གི་ས་ཁྲ།, Amye Machen Institute,i998,ISBN 81-86227-16-4
  • 龔蔭『中国土司制度』雲南民族出版社,1992
  • 小林 亮介「十九世紀末、カムの統治をめぐる清朝とダライラマ政庁--四川総督鹿傳霖のニャロン回収案を中心に」『社会文化史学 』 (46), 2004-10, pp.15-40
  • 小林 亮介「清代、東チベットにおける在地有力者の政治行動--清・蔵の境界のチベット系「土司」 (特集・境界を超える--人の移動・流通・ネットワーク)」『史潮』 (60), pp.20-44, 2006-11
  • 小林 亮介「国民党政権の国家建設とチベット : Hsiao-Ting Lin, Tibet and Nationalist China's Frontier:Intrigue and Ethnopolitics 1928-1949 (Contemporary Chinese Studies) UBC Press, 2006に寄せて(<特集>中国物権法の争点と課題)」『中国研究月報』 61(11), pp.53-59, 2007-11-25
  • 小林亮助「ダライラマ政権の東チベット支配(1865-1911) : 中蔵境界問題形成の一側面」『アジア・アフリカ言語文化研究 』(76), pp.51-85, 2008-09
  • 小林 亮介「一九一〇年前後のチベット--四川軍のチベット進軍の史的位置 (特集 1910年前後の東アジア)」『歴史評論』 (725), pp.27-39, 2010-09
  • 小林亮助「一九世紀末~二〇世紀初頭、ダライラマ政権の東チベット支配とデルゲ王国(徳格土司) 」『東洋文化研究』 13, pp.21-52, 2011-03

関連項目

外部リンク