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[[李平 (北魏)|李平]]の長男として生まれた。父が死去すると、後を嗣いだ。容貌魁偉で、才能と大度で当時に知られた。太尉参軍から、通直郎・中書侍郎となり、直閤将軍の号を加えられた。次いで吏部郎中・征虜将軍に転じた。さらに吏部郎中のまま安東将軍・[[光禄大夫]]の位を受けた。また本官のまま尚書を兼ね、撫軍将軍・[[相州]][[刺史]]として出向した。[[元叉]]が北魏の朝廷で専権をふるうと、李奨はその引き立てを受けて、高位を歴任した。[[霊太后]]が政権を奪回すると、李奨は官爵を剥奪された。[[孝荘帝]]の初年、散騎常侍・鎮東将軍・河南尹に任じられた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、[[元顥]]が[[洛陽]]に入ると、李奨は尚書右僕射を兼ね、[[徐州]]の軍と城民をなだめるよう命じられたが、元顥の命に服さず、殺害されて首級を洛陽に送られた。 |
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2020年8月10日 (月) 06:36時点における最新版
李 奨(り しょう、生年不詳 - 529年)は、北魏の官僚。字は遵穆。本貫は頓丘郡衛国県。
経歴
[編集]李平の長男として生まれた。父が死去すると、後を嗣いだ。容貌魁偉で、才能と大度で当時に知られた。太尉参軍から、通直郎・中書侍郎となり、直閤将軍の号を加えられた。次いで吏部郎中・征虜将軍に転じた。さらに吏部郎中のまま安東将軍・光禄大夫の位を受けた。また本官のまま尚書を兼ね、撫軍将軍・相州刺史として出向した。元叉が北魏の朝廷で専権をふるうと、李奨はその引き立てを受けて、高位を歴任した。霊太后が政権を奪回すると、李奨は官爵を剥奪された。孝荘帝の初年、散騎常侍・鎮東将軍・河南尹に任じられた。529年(永安2年)、元顥が洛陽に入ると、李奨は尚書右僕射を兼ね、徐州の軍と城民をなだめるよう命じられたが、元顥の命に服さず、殺害されて首級を洛陽に送られた。
孝武帝のとき、宋遊道の上書により李奨の名誉は回復され、衛将軍・冀州刺史の位を追贈された。
子女
[編集]- 李構(字は祖基、後嗣、開府参軍、太子中舎人、譙州刺史)
- 李訓(太尉墨曹参軍)