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[[526年]]([[孝昌]]2年)、叔父の[[崔楷]]が[[殷州]][[刺史]]となると、巨倫はその下で長史・北道別将となった。殷州は[[葛栄]]の乱のために陥落し、巨倫は葛栄の下で黄門侍郎となるよう求められた。巨倫は5月5日の夜間を期して、葛栄の帥を手ずから斬り、馬を奪って脱走した。[[洛陽]]に辿りつくと、持節・別将として河北の反乱の掃討を命じられた。まもなく国子博士に任じられた。
[[526年]]([[孝昌]]2年)、叔父の[[崔楷]]が[[殷州]][[刺史]]となると、巨倫はその下で長史・北道別将となった。殷州は[[葛栄]]の乱のために陥落し、巨倫は葛栄の下で黄門侍郎となるよう求められた。巨倫は5月5日の夜間を期して、葛栄の帥を手ずから斬り、馬を奪って脱走した。[[洛陽]]に辿りつくと、持節・別将として河北の反乱の掃討を命じられた。まもなく国子博士に任じられた。


[[528年]]([[建義 (北魏)|建義]]元年)、[[孝荘帝]]が即位すると、巨倫は仮節・中堅将軍・東濮陽郡[[太守]]となり、仮の征虜将軍・別将となった。多くの人々が河北の乱を避けて東濮陽郡に流入しており、食糧不足の年が続いていたが、巨倫は資産を投じて救恤につとめ、名声を高めた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、[[元コウ|元顥]]が[[洛陽]]に入ったが、巨倫は東濮陽郡に拠ったまま従わなかった。孝荘帝が洛陽に帰還すると、巨倫は[[西エン州|西兗州]]の事務を代行し、漁陽県開国男に封じられた。まもなく[[光禄大夫]]の位を受けた。[[530年]](永安3年)、死去した。享年は44。
[[528年]]([[建義 (北魏)|建義]]元年)、[[孝荘帝]]が即位すると、巨倫は仮節・中堅将軍・東濮陽郡[[太守]]となり、仮の征虜将軍・別将となった。多くの人々が河北の乱を避けて東濮陽郡に流入しており、食糧不足の年が続いていたが、巨倫は資産を投じて救恤につとめ、名声を高めた。[[529年]]([[永安 (北魏)|永安]]2年)、[[元顥]]が[[洛陽]]に入ったが、巨倫は東濮陽郡に拠ったまま従わなかった。孝荘帝が洛陽に帰還すると、巨倫は[[西エン州|西兗州]]の事務を代行し、漁陽県開国男に封じられた。まもなく[[光禄大夫]]の位を受けた。[[530年]](永安3年)、死去した。享年は44。


子の崔子武が後を嗣ぎ、[[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]年間に懐州衛軍府録事参軍となった。
子の崔子武が後を嗣ぎ、[[東魏]]の[[武定 (東魏)|武定]]年間に懐州衛軍府録事参軍となった。

2020年8月10日 (月) 06:36時点における版

崔 巨倫(さい きょりん、487年 - 530年)は、北魏官僚軍人は孝宗。本貫博陵郡安平県

経歴

崔逸(崔弁の長男)の子として生まれた。幼くして父を失い、成長すると経書や史書を渉猟して、文学や武芸の才があった。宣武帝に召されて郎となり、冀州鎮北府墨曹参軍・太尉記室参軍に任じられた。

526年孝昌2年)、叔父の崔楷殷州刺史となると、巨倫はその下で長史・北道別将となった。殷州は葛栄の乱のために陥落し、巨倫は葛栄の下で黄門侍郎となるよう求められた。巨倫は5月5日の夜間を期して、葛栄の帥を手ずから斬り、馬を奪って脱走した。洛陽に辿りつくと、持節・別将として河北の反乱の掃討を命じられた。まもなく国子博士に任じられた。

528年建義元年)、孝荘帝が即位すると、巨倫は仮節・中堅将軍・東濮陽郡太守となり、仮の征虜将軍・別将となった。多くの人々が河北の乱を避けて東濮陽郡に流入しており、食糧不足の年が続いていたが、巨倫は資産を投じて救恤につとめ、名声を高めた。529年永安2年)、元顥洛陽に入ったが、巨倫は東濮陽郡に拠ったまま従わなかった。孝荘帝が洛陽に帰還すると、巨倫は西兗州の事務を代行し、漁陽県開国男に封じられた。まもなく光禄大夫の位を受けた。530年(永安3年)、死去した。享年は44。

子の崔子武が後を嗣ぎ、東魏武定年間に懐州衛軍府録事参軍となった。

伝記資料