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「邢昺」の版間の差分

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邢昺は、11世紀以降に[[宋明理学|道学]]が発達する以前の人間であり、その説は伝統的なものであった。
邢昺は、11世紀以降に[[宋明理学|道学]]が発達する以前の人間であり、その説は伝統的なものであった。


『[[四庫全書総目提要]]』に、邢昺の『論語正義』を評して、[[皇侃]]の『論語義疏』のように冗漫でなく、より義理をもって解釈しており、漢学と宋学の転換点にあたると言っている。邢昺の疏によって皇侃の義疏はすたれたが、後に[[程コウ|程顥]]・[[程頤]]があらわれて、邢昺の疏もまたすたれた。
『[[四庫全書総目提要]]』に、邢昺の『論語正義』を評して、[[皇侃]]の『論語義疏』のように冗漫でなく、より義理をもって解釈しており、漢学と宋学の転換点にあたると言っている。邢昺の疏によって皇侃の義疏はすたれたが、後に[[程顥]]・[[程頤]]があらわれて、邢昺の疏もまたすたれた。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月10日 (月) 06:34時点における版

邢 昺(けい へい、932年 - 1010年)は、中国北宋の学者。は叔明。曹州済陰県(現在の山東省菏沢市曹県)の出身。

孔穎達らが『五経正義』を作ったが、邢昺らはそれ以外の『論語』『孝経』『爾雅』のを作った。これらは『十三経注疏』に含まれている。

生涯

太平興国年間に諸科(唐の明経科に相当)のうち五経科挙試験を受けたが、殿試で非常に博学であることがわかったので、九経に合格したことにされた。

真宗咸平元年(998年)に国子祭酒となり、翌咸平2年(999年)、新設された翰林侍講学士の職を兼ねた。邢昺は勅命によって杜鎬・舒雅・孫奭・李慕清・崔偓佺らとともに『周礼』『儀礼[1]春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』『論語』『孝経』『爾雅』の義疏を作成した[2]

邢昺は真宗のために経典の講義を行った。景徳4年(1007年)、帰郷を申し出て、故郷の曹州の知州となった。大中祥符元年(1008年)に礼部尚書に昇進した。大中祥符3年(1010年)に享年79歳で没した。

評価

邢昺は、11世紀以降に道学が発達する以前の人間であり、その説は伝統的なものであった。

四庫全書総目提要』に、邢昺の『論語正義』を評して、皇侃の『論語義疏』のように冗漫でなく、より義理をもって解釈しており、漢学と宋学の転換点にあたると言っている。邢昺の疏によって皇侃の義疏はすたれたが、後に程顥程頤があらわれて、邢昺の疏もまたすたれた。

脚注

  1. ^ 郡斎読書志』には、賈公彦の疏を邢昺に修正させたと記している
  2. ^ 瀧遼一『縮刷 東洋歴史大辞典 上巻』臨川書店、1992年、P.429頁。 

参考文献