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「李侗 (南宋)」の版間の差分

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== 略伝 ==
== 略伝 ==
南剣州剣浦県(現在の[[福建省]][[南平市]][[延平区]])の出身。14歳の時に、同じ郡にいた[[羅従彦]]が[[宋学]]の大家である[[楊時]]より程氏([[程コウ|程顥]]・[[程頤]])の学を承けたと聞いて弟子となり、学問を究めて従彦が賞賛するほどになった。後に山田に住居を定め、40年間も世間との交わりを絶って一心に学問に精進した。宋学を大成した[[朱熹]]は弟子である。世は'''延平先生'''と称し、71歳で没する。[[明]]代の[[万暦]]年間に[[孔子廟]]に従祀された。著に『延平問答』と『語録』がある。また[[清]]代の[[張敬菴]]が編纂した『李延平集』4巻があり、問答の他に詩文を載せている。
南剣州剣浦県(現在の[[福建省]][[南平市]][[延平区]])の出身。14歳の時に、同じ郡にいた[[羅従彦]]が[[宋学]]の大家である[[楊時]]より程氏([[程顥]]・[[程頤]])の学を承けたと聞いて弟子となり、学問を究めて従彦が賞賛するほどになった。後に山田に住居を定め、40年間も世間との交わりを絶って一心に学問に精進した。宋学を大成した[[朱熹]]は弟子である。世は'''延平先生'''と称し、71歳で没する。[[明]]代の[[万暦]]年間に[[孔子廟]]に従祀された。著に『延平問答』と『語録』がある。また[[清]]代の[[張敬菴]]が編纂した『李延平集』4巻があり、問答の他に詩文を載せている。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年8月10日 (月) 06:32時点における版

李侗(『晩笑堂竹荘画伝』より)

李侗(り とう、1093年 - 1163年)は、中国・南宋時代の儒学者は愿中。号は延平。は文靖。

略伝

南剣州剣浦県(現在の福建省南平市延平区)の出身。14歳の時に、同じ郡にいた羅従彦宋学の大家である楊時より程氏(程顥程頤)の学を承けたと聞いて弟子となり、学問を究めて従彦が賞賛するほどになった。後に山田に住居を定め、40年間も世間との交わりを絶って一心に学問に精進した。宋学を大成した朱熹は弟子である。世は延平先生と称し、71歳で没する。代の万暦年間に孔子廟に従祀された。著に『延平問答』と『語録』がある。また代の張敬菴が編纂した『李延平集』4巻があり、問答の他に詩文を載せている。

参考文献