「王騰 (後燕)」の版間の差分
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384年1月、王騰・慕容鳳・段随は[[慕容垂]]を盟主にすべきと翟斌に勧めた。翟斌はこの勧めに従った。建威将軍に任じられた。慕容垂が[[洛陽]]から[[鄴]]へ向かう際、王騰は[[ケイ陽市|石門]]に浮橋を作り、軍の東遷を助けた。 |
2020年8月10日 (月) 06:24時点における版
王 騰(おう とう)は、五胡十六国時代の後燕の軍人・官僚。燕郡の人。前燕の旧臣の子として生まれ、後燕の建国及び発展に貢献した。
生涯
383年12月、翟斌が反前秦の兵をあげたのに呼応して、慕容鳳・段随らとともに挙兵した。王騰らは各々の私兵を率いて、翟斌に合流した。前秦の平原公苻暉は、平武侯毛当に翟斌討伐を命じた。翟斌軍は毛当軍を破り、慕容鳳が毛当を討ち取った。進軍して陵雲台を攻略して、1万余の甲冑等を接収した。
384年1月、王騰・慕容鳳・段随は慕容垂を盟主にすべきと翟斌に勧めた。翟斌はこの勧めに従った。建威将軍に任じられた。慕容垂が洛陽から鄴へ向かう際、王騰は石門に浮橋を作り、軍の東遷を助けた。
398年7月、後燕皇帝に慕容盛が即位した。王騰は尚書に任じられた。
402年1月、右僕射に任じられた。
これ以後、王騰の事績は史書に記されていない。