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「潼関」の版間の差分

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== 遺跡 ==
== 遺跡 ==

2020年8月8日 (土) 08:07時点における版

潼関(どうかん[1][2][3]、とうかん[4])は、中国陝西省の東端にあった関所(関塞)[1]。現在の行政区画では、陝西省渭南市潼関県の北部に位置する。黄河の屈曲点に位置し、古来中原から関中に入る交通の要衝・軍事の要地として知られる[1][3]

地理

潼関の位置(華北平原内)
潼関
潼関
洛陽
洛陽
長安
長安
関連地図

南流していた黄河が、華山秦嶺山脈)につき当たり、西から流れる渭水と合流して東へと向かう屈曲点の南岸に位置する[3][2][4]。地形は険阻であり[1]中原河南省洛陽方面)と関中(陝西省、長安方面)とを結ぶ要衝であった[4]

名称

「潼関」という名称は曹魏の時代から文献に見られる[5]

北魏酈道元が著した『水経注』(6世紀)によれば、南流してきた黄河が山に「潼激」するところから「潼関」の名があるという[6][注釈 1]

『水経注』[注釈 2]や『元和郡県志[注釈 3]には、崤山 (zhから潼津にかけての地域を押しなべて「函谷関」と呼ぶ、と記されている[7]。「潼関」という名称が現れる曹魏以前、黄河の屈曲点付近は「桃林塞」「函谷関」といった名称で記録に現れている[5]。このほか潼関については、衝関、雲潼関といった名称も用いられた[8]

この地域の関塞は時代や政治状況によって数度にわたって移転したり、複数の関塞を併用していたりしている[5]。歴史地理学・考古学者の塩沢裕仁は、「桃林塞」「函谷関」「潼関」が一つのものとして理解され[8]、現在の潼関県から河南省三門峡市霊宝市までの広範な地域が「函谷関」と称されてきたこと[9]に注意を促し、潼関を「第四の函谷関」[6][注釈 4]としている。

歴史

春秋時代はこの付近に桃林塞を築いた[3][4]。東にあった函谷関とともに関中の守りとなっていた[4]とされる。なおこの桃林塞について、西晋杜預は『春秋左氏伝』に付した注で、桃林塞を潼関と同一とする認識を示している[10]

漢代に函谷関が洛陽付近に移されたため[4]後漢末期(2世紀末頃)に新たに関所が設けられ[2][3][4]、潼関とよばれた[3]

建安16年(211年)には、曹操軍と馬超韓遂ら関中軍閥の間で潼関の戦いが行われた。『三国志』にあるこの戦いの記述が、「潼関」の名を記す初出である[6]

天宝15載(756年)、安史の乱初期の戦いの一つが行われた (zh:靈寶、潼關之戰哥舒翰率いる唐軍は潼関を失い、唐の朝廷は長安から蜀に逃れることになる。

20世紀まで、黄河河畔にあった潼関の町(明清代の潼関県の県城)[8]は、対岸の風陵渡中国語版(現在の山西省運城市芮城県風陵渡鎮中国語版)とともに商業地として栄え[3]、鉄道路線の隴海線も通っていた[4]。1950年代、黄河下流に三門峡ダムが建設されると、潼関の町は南方に移転し[8]、鉄道も付け替えられた[3]

遺跡

一般に、三門峡ダム建設時に放棄された明清代の潼関県の県城(現在の潼関県秦東鎮中国語版(元港口鎮、2002年に港口鎮が秦東鎮に編入)。北緯34度36分24秒 東経110度17分33秒 / 北緯34.60667度 東経110.29250度 / 34.60667; 110.29250[注釈 5])が「潼関」と認識されている[8]。北面を除いた3面の残存状況は比較的良いという[8]

秦東鎮南方の台地上には複数の遺跡があり[8]、古代からの関塞や古道を考える上では重要である[11]

文学における潼関

書経』武成篇によれば、武王は、紂王を放伐したのち、軍用の牛馬を放って二度と用いないことを天下に示した(帰馬放牛)。このうち牛を放った場所が桃林である。

杜甫の「三吏三別詩」の一つとして「潼関吏」が数えられている。異民族に備えて潼関を堅牢化する工事を描くとともに、哥舒翰の敗軍について触れられている。

脚注

注釈

  1. ^ 河在關内南流,潼激關山,因謂之潼關」『水経注』巻四(中文版Wikisource
  2. ^ 河水自潼關東北流,水側有長坂,謂之黄巷坂。坂傍絶澗,陟此坂以升潼關,所謂泝黄巷以済潼矣。歴北出東崤,通謂之函谷關也」『水経注』巻四(中文版Wikisource
  3. ^ 東自崤山,西至潼津,通名函谷」『元和郡県志』巻六。『西征記』よりの引用(中文版Wikisource
  4. ^ 一般に知られる3つの函谷関は「周函谷関」(現在の河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮(元北坡頭郷、1994年に北坡頭郷が函谷関鎮に改編)王垛村)、「漢函谷関」(現在の河南省洛陽市新安県城関鎮東関村)、「魏函谷関」(現在の河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮孟村。三門峡ダムのダム湖に水没)。
  5. ^ 塩沢(2016年)に示されている、集落を取り囲む城壁のうち東関の座標[8]

出典

  1. ^ a b c d 潼関”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2019年12月23日閲覧。
  2. ^ a b c 潼関”. 百科事典マイペディア(コトバンク所収). 2019年12月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 潼関”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 2019年12月23日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h 潼関”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 2019年12月23日閲覧。
  5. ^ a b c 塩沢裕仁 2016, p. 501.
  6. ^ a b c 塩沢裕仁 2016, p. 473.
  7. ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 502, 473.
  8. ^ a b c d e f g h i j k 塩沢裕仁 2016, p. 472.
  9. ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 468–467.
  10. ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 473–472.
  11. ^ 塩沢裕仁 2016, pp. 472, 468.
  12. ^ 塩沢裕仁 2016, p. 471.
  13. ^ 塩沢裕仁 2016, p. 468.

参考文献