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趙紫陽派の改革派として、天安門における民主化運動では趙紫陽と[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]・ソ連書記長の会談が終わった後の16日夕方、学生に絶食を止めるよう説得したが失敗している。その夜に開かれた常務委員会を経て趙紫陽が絶食中止を求めに向かったがこれも失敗し、改革派の敗北は決定的となった。
趙紫陽派の改革派として、天安門における民主化運動では趙紫陽と[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]・ソ連書記長の会談が終わった後の16日夕方、学生に絶食を止めるよう説得したが失敗している。その夜に開かれた常務委員会を経て趙紫陽が絶食中止を求めに向かったがこれも失敗し、改革派の敗北は決定的となった。


[[6月23日]]、[[中国共産党第十三期中央委員会第四回全体会議|第13期4中全会]]で趙紫陽を支える3人として[[胡啓立]]、[[ゼイ杏文]]と共に全職務から解任。1991年、保守派を揺さぶるため、[[鄧小平]]が胡啓立、ゼイ杏文と共に正部長級の副部長職([[中華人民共和国民生部|民生部]]副部長)に復帰させると改革への期待が高まったが、中央委員復活はならなかった。1997年7月、民生部副部長を解任。
[[6月23日]]、[[中国共産党第十三期中央委員会第四回全体会議|第13期4中全会]]で趙紫陽を支える3人として[[胡啓立]]、[[杏文]]と共に全職務から解任。1991年、保守派を揺さぶるため、[[鄧小平]]が胡啓立、ゼイ杏文と共に正部長級の副部長職([[中華人民共和国民生部|民生部]]副部長)に復帰させると改革への期待が高まったが、中央委員復活はならなかった。1997年7月、民生部副部長を解任。


2005年から、『炎黄春秋』紙にコラムを不定期に寄稿。
2005年から、『炎黄春秋』紙にコラムを不定期に寄稿。

2020年8月7日 (金) 11:04時点における版

閻明復
プロフィール
出生: 1931年
出身地: 中華人民共和国の旗 中華人民共和国遼寧省海城市
職業: 政治家
各種表記
繁体字 閻明復
簡体字 阎明复
拼音 Yán Míngfù
和名表記: えん めいふく
発音転記: イェン ミンフー
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閻明復(えん めいふく)は中華人民共和国の政治家。1989年の天安門事件で学生たちに同情的な立場をとったため、中共中央書記処書記、中央統一戦線部長の職務を解任された。

1949年、ハルビン外国語専門学校(現黒龍江大学)を卒業、同年に中国共産党入党。全国総工会国際部科長、中共中央弁公庁翻訳組長、中共中央編集翻訳局毛主席著作室などで勤務するが、文化大革命期の1967年に失脚。

復活後は中国大百科全書出版社副総編集長、第6期全人代常務委員会副秘書長。1987年の第13回党大会で中央委員、中央書記処書記、中央統一戦線部長。

趙紫陽派の改革派として、天安門における民主化運動では趙紫陽とゴルバチョフ・ソ連書記長の会談が終わった後の16日夕方、学生に絶食を止めるよう説得したが失敗している。その夜に開かれた常務委員会を経て趙紫陽が絶食中止を求めに向かったがこれも失敗し、改革派の敗北は決定的となった。

6月23日第13期4中全会で趙紫陽を支える3人として胡啓立芮杏文と共に全職務から解任。1991年、保守派を揺さぶるため、鄧小平が胡啓立、ゼイ杏文と共に正部長級の副部長職(民生部副部長)に復帰させると改革への期待が高まったが、中央委員復活はならなかった。1997年7月、民生部副部長を解任。

2005年から、『炎黄春秋』紙にコラムを不定期に寄稿。

先代
楊静仁
中国共産党中央統一戦線工作部
1986年 - 1990年  
次代
 丁関根 

外部サイト