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「劉珍 (隋)」の版間の差分

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'''劉 珍'''(りゅう ちん、生没年不詳)、[[中国]][[隋]]の道士。[[広漢郡]]什邡県(現在の[[四川省]][[徳陽市]][[什ホウ市|什邡市]])の人<ref>[https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k80/k80cont.html 『四川総志』]</ref>。
'''劉 珍'''(りゅう ちん、生没年不詳)、[[中国]][[隋]]の道士。[[広漢郡]]什邡県(現在の[[四川省]][[徳陽市]][[什邡市]])の人<ref>[https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/k80/k80cont.html 『四川総志』]</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年8月3日 (月) 11:52時点における版

劉 珍(りゅう ちん、生没年不詳)、中国の道士。広漢郡什邡県(現在の四川省徳陽市什邡市)の人[1]

生涯

開皇19年(599年)、合江県安楽山(現在の筆架山)で修道した。所蔵されている道経、鐘磬の持ち出しは禁じられており、封じた石室は60年後に聖君が現れて取り出すと予言していた。

『太平環宇記』には仙人となって飛んで行ったと記されてあり、隋の文帝がその遺跡を訪問して騰清観・安楽観・靖安観を建てるよう命令した。高宗顕慶4年(659年)に経、鐘磬を取ってくるよう使いを出して、山の壁に碑文を刻んだ[2]

脚注