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[[222年]]、[[劉備]]は[[夷陵の戦い]]で[[陸遜]]に敗れ、[[白帝城]]に撤退した。223年3月、[[漢嘉郡|漢嘉]][[太守]]の黄元はかねてより[[諸葛亮]]と不仲だったので、劉備の病気が重いと聞き、後難を恐れ反乱を起こした。諸葛亮は劉備危篤のため白帝城に赴いており、[[成都]]は手薄だった。黄元は漢嘉郡から北上して[[邛崍市|臨邛]]城を焼き払い、成都を窺う様子を見せた。 |
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成都にいた[[益州]]治中従事の[[楊洪]]は、陳曶・鄭綽に迎撃させるよう[[皇太子]]の[[劉禅]]に進言した。群臣は、黄元は成都を包囲できなかったならば南中を根拠地にするだろう、と予想した。しかし楊洪は「黄元は凶暴で、恩愛や信義を全く施していないため、そのような手を打てるはずがない。せいぜい川の流れに乗って東へ下るだけだ。もし陛下がご健勝ならば自らを縛って降伏するだろうし、そうでなければ[[呉 (三国)|呉]]に出奔するだろう。二将に南安([[四川省]][[楽山市]])の峡口を遮らせれば、ほどなく生け捕りにできる」と断言した。果たして黄元は討伐軍に捕らえられ、成都で斬首された。 |
成都にいた[[益州]]治中従事の[[楊洪]]は、陳曶・鄭綽に迎撃させるよう[[皇太子]]の[[劉禅]]に進言した。群臣は、黄元は成都を包囲できなかったならば南中を根拠地にするだろう、と予想した。しかし楊洪は「黄元は凶暴で、恩愛や信義を全く施していないため、そのような手を打てるはずがない。せいぜい川の流れに乗って東へ下るだけだ。もし陛下がご健勝ならば自らを縛って降伏するだろうし、そうでなければ[[呉 (三国)|呉]]に出奔するだろう。二将に南安([[四川省]][[楽山市]])の峡口を遮らせれば、ほどなく生け捕りにできる」と断言した。果たして黄元は討伐軍に捕らえられ、成都で斬首された。 |
2020年8月3日 (月) 11:49時点における版
黄 元(こう げん、? - 223年3月)は、中国三国時代の蜀漢の武将。
222年、劉備は夷陵の戦いで陸遜に敗れ、白帝城に撤退した。223年3月、漢嘉太守の黄元はかねてより諸葛亮と不仲だったので、劉備の病気が重いと聞き、後難を恐れ反乱を起こした。諸葛亮は劉備危篤のため白帝城に赴いており、成都は手薄だった。黄元は漢嘉郡から北上して臨邛城を焼き払い、成都を窺う様子を見せた。
成都にいた益州治中従事の楊洪は、陳曶・鄭綽に迎撃させるよう皇太子の劉禅に進言した。群臣は、黄元は成都を包囲できなかったならば南中を根拠地にするだろう、と予想した。しかし楊洪は「黄元は凶暴で、恩愛や信義を全く施していないため、そのような手を打てるはずがない。せいぜい川の流れに乗って東へ下るだけだ。もし陛下がご健勝ならば自らを縛って降伏するだろうし、そうでなければ呉に出奔するだろう。二将に南安(四川省楽山市)の峡口を遮らせれば、ほどなく生け捕りにできる」と断言した。果たして黄元は討伐軍に捕らえられ、成都で斬首された。
なお、『三国志演義』には登場しない。