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「喜多道矩」の版間の差分

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==略伝==
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[[隠元隆き|隠元隆琦]]に随って渡来した[[明]]画人の[[楊道真]]に師事し、[[長崎派#黄檗派|黄檗画像]]の技法を学んだ。はじめ長崎で隠元・[[即非]]・[[木庵性トウ|木庵]]の[[頂相]]を画き、「'''隠元かきの長兵衛'''」と称された。[[明暦]]3年2月(1657年)の木庵[[賛|自賛]]像が確認できる最も早い時期の作品である。作品には「長」<ref>「隠元禅師騎獅像」(護国山[[東輪寺]]([[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[松原 (名古屋市)|松原]])蔵)に「崎邑仏弟子[[喜多宗雲]]」の[[落款]]と「長」の印章があり、従来喜多長兵衛の作品と考えられてきたが、作風が異なることから元規とは別人物であると見なされている。</ref>の[[印章|印]]を用いている。[[寛文]]元年(1661年)、隠元の[[萬福寺]][[晋山]]に随って黄檗山に上った。同3年に没して黄檗山万松岡に葬られた。子の[[喜多元規]]は黄檗画像の代表的画家となった。
[[隠元隆琦]]に随って渡来した[[明]]画人の[[楊道真]]に師事し、[[長崎派#黄檗派|黄檗画像]]の技法を学んだ。はじめ長崎で隠元・[[即非]]・[[木庵性トウ|木庵]]の[[頂相]]を画き、「'''隠元かきの長兵衛'''」と称された。[[明暦]]3年2月(1657年)の木庵[[賛|自賛]]像が確認できる最も早い時期の作品である。作品には「長」<ref>「隠元禅師騎獅像」(護国山[[東輪寺]]([[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[松原 (名古屋市)|松原]])蔵)に「崎邑仏弟子[[喜多宗雲]]」の[[落款]]と「長」の印章があり、従来喜多長兵衛の作品と考えられてきたが、作風が異なることから元規とは別人物であると見なされている。</ref>の[[印章|印]]を用いている。[[寛文]]元年(1661年)、隠元の[[萬福寺]][[晋山]]に随って黄檗山に上った。同3年に没して黄檗山万松岡に葬られた。子の[[喜多元規]]は黄檗画像の代表的画家となった。


==註==
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2020年8月2日 (日) 22:11時点における版

喜多 道矩(きた どうく、生年不詳 - 寛文3年9月13日(1663年))は、江戸時代前期の黄檗画像黄檗僧頂相)の画家。

通称長兵衛。

略伝

隠元隆琦に随って渡来した画人の楊道真に師事し、黄檗画像の技法を学んだ。はじめ長崎で隠元・即非木庵頂相を画き、「隠元かきの長兵衛」と称された。明暦3年2月(1657年)の木庵自賛像が確認できる最も早い時期の作品である。作品には「長」[1]を用いている。寛文元年(1661年)、隠元の萬福寺晋山に随って黄檗山に上った。同3年に没して黄檗山万松岡に葬られた。子の喜多元規は黄檗画像の代表的画家となった。

  1. ^ 「隠元禅師騎獅像」(護国山東輪寺名古屋市中区松原)蔵)に「崎邑仏弟子喜多宗雲」の落款と「長」の印章があり、従来喜多長兵衛の作品と考えられてきたが、作風が異なることから元規とは別人物であると見なされている。

関連項目

参考文献

隠元像
木庵像
即非像

外部リンク