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「日本の篆刻史」の版間の差分

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=== 今体派 ===
=== 今体派 ===
明朝が滅亡し[[清朝]]に服属しない為に日本に亡命してきた[[黄檗宗]]の禅僧たちによって、新しい篆刻がもたらされた。[[隠元隆|隠元]]・[[木庵性トウ|木庵]]・[[即非如一|即非]]・[[高泉性敦|高泉]]や[[黙子如定]]、[[蘭谷]]などいずれも篆刻をよくした。とりわけ[[承応]]2年(1653年)、[[長崎]]に渡来した[[独立性易]]は学識深く、[[書]]を巧みとし、本国にいたときから著名であった。彼は隠元に伴って[[江戸]]を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻を広く伝えた。よって独立は日本篆刻の祖{{Efn|明治23年に中井敬所によって『独立禅師印譜』が刊行されている。この印譜は独立が帰化するときに携えてきた印を鈐したもので現在東京国立博物館に所蔵される。}}とされる。弟子の[[高玄岱]]を通じて[[榊原篁洲]]・[[池永一峰]]・[[細井広沢]]などの'''初期江戸派'''と呼ばれる人々の間に伝わった。渡来僧の中でもうひとり特筆すべきは[[延宝]]5年(1677年)に来日した[[東皐心越|心越]]{{Efn|明治14年に[[浅野斧山]]によって東皐全集が刊行された。その中に心越の自刻印の印影がある。この印は水戸祇園寺に所蔵される。}}である。彼は[[徳川光圀]]に仕え、榊原篁洲や[[松浦静軒]]など篆刻を多くの人々に教えたという。
明朝が滅亡し[[清朝]]に服属しない為に日本に亡命してきた[[黄檗宗]]の禅僧たちによって、新しい篆刻がもたらされた。[[隠元隆|隠元]]・[[木庵性トウ|木庵]]・[[即非如一|即非]]・[[高泉性敦|高泉]]や[[黙子如定]]、[[蘭谷]]などいずれも篆刻をよくした。とりわけ[[承応]]2年(1653年)、[[長崎]]に渡来した[[独立性易]]は学識深く、[[書]]を巧みとし、本国にいたときから著名であった。彼は隠元に伴って[[江戸]]を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻を広く伝えた。よって独立は日本篆刻の祖{{Efn|明治23年に中井敬所によって『独立禅師印譜』が刊行されている。この印譜は独立が帰化するときに携えてきた印を鈐したもので現在東京国立博物館に所蔵される。}}とされる。弟子の[[高玄岱]]を通じて[[榊原篁洲]]・[[池永一峰]]・[[細井広沢]]などの'''初期江戸派'''と呼ばれる人々の間に伝わった。渡来僧の中でもうひとり特筆すべきは[[延宝]]5年(1677年)に来日した[[東皐心越|心越]]{{Efn|明治14年に[[浅野斧山]]によって東皐全集が刊行された。その中に心越の自刻印の印影がある。この印は水戸祇園寺に所蔵される。}}である。彼は[[徳川光圀]]に仕え、榊原篁洲や[[松浦静軒]]など篆刻を多くの人々に教えたという。


この新しい篆刻の風は[[大坂]]では[[新興蒙所]]や[[佚山]]らによって'''初期浪華派'''に、長崎では[[源伯民]]らによって'''長崎派'''が形成されるなど日本各地に伝播した。これらの明清の篆刻を奉ずる一派を「今体派」と称する。この今体派は特に「[[汪啓淑|飛鴻堂一派]]」の流れを多く継承しているとされる。
この新しい篆刻の風は[[大坂]]では[[新興蒙所]]や[[佚山]]らによって'''初期浪華派'''に、長崎では[[源伯民]]らによって'''長崎派'''が形成されるなど日本各地に伝播した。これらの明清の篆刻を奉ずる一派を「今体派」と称する。この今体派は特に「[[汪啓淑|飛鴻堂一派]]」の流れを多く継承しているとされる。

2020年8月2日 (日) 22:08時点における版

日本の篆刻史(にほんのてんこくし)とは、日本における篆刻および印章の歴史である。

江戸時代

江戸初期

室町時代に流行した私印は江戸時代初期にも見られ、藤原惺窩林羅山などの儒者を中心に用いられた。また本阿弥光悦[注釈 1]俵屋宗達などの芸術家も独自の印を用いている。これらの印章は誰が刻したのかは明らかではない。ただこの時代にあって、石川丈山の篆刻は他とは異なり、明代文人の趣味に通じる華美な様式が取り入れられている。明人との交友があることから篆刻を学び自ら刻した可能性もあり、日本篆刻の先駆者のひとりとできる。丈山を除けばこの時代の印章は概して実用目的で用いられ、正しい篆法・印法・刀法に則っていない。

今体派

明朝が滅亡し清朝に服属しない為に日本に亡命してきた黄檗宗の禅僧たちによって、新しい篆刻がもたらされた。隠元木庵即非高泉黙子如定蘭谷などいずれも篆刻をよくした。とりわけ承応2年(1653年)、長崎に渡来した独立性易は学識深く、を巧みとし、本国にいたときから著名であった。彼は隠元に伴って江戸を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻を広く伝えた。よって独立は日本篆刻の祖[注釈 2]とされる。弟子の高玄岱を通じて榊原篁洲池永一峰細井広沢などの初期江戸派と呼ばれる人々の間に伝わった。渡来僧の中でもうひとり特筆すべきは延宝5年(1677年)に来日した心越[注釈 3]である。彼は徳川光圀に仕え、榊原篁洲や松浦静軒など篆刻を多くの人々に教えたという。

この新しい篆刻の風は大坂では新興蒙所佚山らによって初期浪華派に、長崎では源伯民らによって長崎派が形成されるなど日本各地に伝播した。これらの明清の篆刻を奉ずる一派を「今体派」と称する。この今体派は特に「飛鴻堂一派」の流れを多く継承しているとされる。

古体派

江戸を中心に隆盛した今体派の篆刻は装飾過多で卑俗に陥っていた。また舶載される書籍により、中国篆刻の情報が得やすくなり、明代の徐官『古今印史』や吾丘衍『学古編』などが刊行される。こうした中で高芙蓉によって「古体派」が起こる。装飾趣味の弊害を打破し、尚古主義を唱え、の正しい篆法に則った篆刻に立ち戻ろうとした。芙蓉門には、木村蒹葭堂池大雅のような大家や葛子琴曽之唯浜村蔵六前川虚舟源惟良などの優れた門弟が育ち、江戸時代後期以降、大いに隆盛し全国各地に広まった。

その他

今体派と古体派が江戸時代における篆刻の二大潮流といえるが、その他にも水戸において立原杏所などの水戸派頼一族などが中心となった文人学者の篆刻の流れも見られた。

江戸末期

一世を風靡した高芙蓉の古体派は幕末になると次第に変容し、中には古体派の風を逸脱し独自色を打ち出す者も出現する。細川林谷はもっとも華やかで清新な作風だったので広く受け入れられ著名となった。林谷は長崎遊歴後、京都・江戸に住んで活躍した。その子の林斎・頼立斎らがこの作風を受け継ぎ、明治維新後も続いた。江戸においては二世浜村蔵六が名人蔵六と呼ばれ、新味を打ち出していた。また同じく江戸で益田勤斎が初期江戸派の流れを汲みながら古法を守り、創意を加えた作風でその子益田遇所とともに浄碧居派と称する一派を成した。

明治時代・大正時代

保守派

古体派は明治維新後衰微しつつもなおその作風は受け継がれ、保守派と呼ばれた。その中で京都の中村水竹安部井櫟堂はともに天皇御璽大日本御璽を刻している。また江戸においては、四世浜村蔵六や細川林谷の流れを受けた羽倉可亭山本竹雲が活躍した。中井敬所は四世浜村蔵六や益田遇所に師事し、高い学識を身につけてこの派の代表といえる。その他に豪放磊落な作風の山田寒山が挙げられる。

革新派

明治13年に来聴した楊守敬が紹介した北碑の資料に啓発され、北碑派の書が流行した。その結果、この新しい碑学派の篆刻を行う者が現れ、革新派と称した。小曽根乾堂篠田芥津円山大迂初世中村蘭台五世浜村蔵六桑名鉄城河井荃廬などが挙げられる。大迂や荃廬などは清国に渡り、徐三庚呉昌碩から直接篆刻を学んでいる。中でも荃廬は長尾雨山とともに呉昌碩に学び、西泠印社にも入社している。

その他

菅家塩小路篆刻道

菅原道真を遠祖とする直系の塩小路家に伝わる篆刻道。古来、始祖の天穂日命高天原より携えてきたとされる命の火を起源とする[1]平安時代 遣唐使となった菅原清公より持ち込んだ知識と、古来より伝わる儀式を清公、是善、道真親子三代で日本独自のものとして合一、発展させた祖業の一つ[2]。神と対話する為の神聖文字という極めて特異な性質をもつ[3]字形と書くときにを込めること、また、心技一体を重視している[4]。この文字は気を吸収・蓄積・放出する[5]。また、文字を書く面を宇宙として日本刀を原型とした印刀を書くことで悪縁を断ち良縁を結ぶ[6]。菅原道真の詩中より美麗な言葉を選出し篆刻することを流儀とする[7]。書をただの情報伝達として行わず「形」と「気」からなすこと[8]方寸の宇宙[注釈 4][9]遊神[注釈 5][10]などを奥義とする。陶印は持つあいだ失われた生気が戻るとして信仰されている[11]

脚注

注釈

  1. ^ 光悦印の斬新さは後世の作に引けをとらない。宗達は印法に従ってはいないが味のある円印を好んで用いており、後の尾形光琳酒井抱一などの琳派の作家達はこの独特の印を落款印としている。
  2. ^ 明治23年に中井敬所によって『独立禅師印譜』が刊行されている。この印譜は独立が帰化するときに携えてきた印を鈐したもので現在東京国立博物館に所蔵される。
  3. ^ 明治14年に浅野斧山によって東皐全集が刊行された。その中に心越の自刻印の印影がある。この印は水戸祇園寺に所蔵される。
  4. ^ 心を小域の方寸の宇宙から広域の宇宙にまで広げ宇宙と同化する。
  5. ^ 篆刻を専業とせず自然に良い気を出し清潔な良縁を結ぶ暖かく柔らかな線を書く。

出典

参考文献

  • 中田勇次郎『日本の篆刻』二玄社、1966年
  • 塩小路光孚『東風吹かば―神聖文字、篆刻と書を家業として』星と森、1998年。ISBN 978-4-93-893703-4 

関連項目