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[[1649年]](慶安2年)4月、[[崇福寺 (長崎市)|崇福寺]]の住持であった[[百拙如理]]が没したため、後任の住持に関して相談を受けた。無心は、中国で交友があった[[也嬾性圭]]を推した。これによって、也嬾の来日の手はずが整えられ、実際、也嬾は[[廈門市|廈門]]より出帆するも、暴風雨によって没してしまった。 |
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その後、[[逸然性融]]の求めに対し、無心は、也嬾の師である[[隠元隆琦]]の招致を求めた。 |
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隠元が渡来すると、無心は、隠元に随従して[[摂津国|摂津]]の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]、さらには黄檗山[[萬福寺]]の開創にも同行した。その後も隠元に付き従い、萬福寺の知蔵・監院などの役職を歴任し、授戒会の引請[[阿闍梨]]などを務めた。 |
隠元が渡来すると、無心は、隠元に随従して[[摂津国|摂津]]の[[普門寺 (高槻市)|普門寺]]、さらには黄檗山[[萬福寺]]の開創にも同行した。その後も隠元に付き従い、萬福寺の知蔵・監院などの役職を歴任し、授戒会の引請[[阿闍梨]]などを務めた。 |
2020年8月2日 (日) 22:08時点における版
無心性覚 | |
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1613年 - 1671年 | |
生地 | 福建省福州府福清県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派 |
寺院 | 興福寺、普門寺、黄檗山萬福寺 |
無心性覚(むしん しょうかく、1613年(万暦41年) - 1671年(寛文11年))は、中国・明末清初に日本に渡来した僧である。無心は号、性覚は諱である。
生涯
幼い時に、支提山にて出家する。
1649年(慶安2年)4月、崇福寺の住持であった百拙如理が没したため、後任の住持に関して相談を受けた。無心は、中国で交友があった也嬾性圭を推した。これによって、也嬾の来日の手はずが整えられ、実際、也嬾は廈門より出帆するも、暴風雨によって没してしまった。
その後、逸然性融の求めに対し、無心は、也嬾の師である隠元隆琦の招致を求めた。
隠元が渡来すると、無心は、隠元に随従して摂津の普門寺、さらには黄檗山萬福寺の開創にも同行した。その後も隠元に付き従い、萬福寺の知蔵・監院などの役職を歴任し、授戒会の引請阿闍梨などを務めた。
1671年(寛文11年)1月に没した。享年59。