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離島振興法は同年7月成立した。本土との距離が近い天草は「離島振興法」適用は困難といわれる中、同年10月の第一回離島振興対策審議会で地域指定された。当時、熊本県議会議員だった二神勇雄は地域新聞の『天草民報』に、天草の地域指定を決定したこの審議会の傍聴記をよせた。
離島振興法は同年7月成立した。本土との距離が近い天草は「離島振興法」適用は困難といわれる中、同年10月の第一回離島振興対策審議会で地域指定された。当時、熊本県議会議員だった二神勇雄は地域新聞の『天草民報』に、天草の地域指定を決定したこの審議会の傍聴記をよせた。


{{quotation|昭和28年10月9日、この日はわが天草にとって 記念すべき日となった 。それは天草の歴史に、天草が離島としての経済的文化的後進性を脱却すべき一段階を画することになったからである。東京の街には、朝から霧が立ち込めていた。街路樹もビルも冷え冷えした空気の中で霧に濡れたっていた。私はその中を永田町の第一衆議院会館にいる園田代議士のもとに急いだ。前日の離島対策審議会では、天草も一応指定の線内に入ったものの、委員の中には強固論を吐く者もいるので上島特に大矢野島がはずされる危険がありやしないか。それに同日指定候補にのぼった島々が全国で33の多きに達しているが、天草も沢山の島を道連れにして結局放り出されるのではないか。 審議会の委員をしている某県の知事達が前夜ひそかに集まって協議をしているそうだが 、それは天草をはずす相談ではなかったろうか。このような心配が私の脳裏にあり、最後の断案の下される今日この日、秋霧の立ち込めた 薄暗い東京の街のようにわたくしの心にも冷たくおも苦しいものがあった。会館の園田君の部屋に入ると、樋島の森村長も約束どおり来合わせていた。前日の審議会で副会長の席を占めた園田君は会の空気をよく承知して大丈夫だ と言っている。成る程園田君が 副会長になる事は天草を認めてのことであろう。天草がはずされることはあるまい。とにかく会場に急ごう。 最後の頑張りだ。午前10時会の始まる前に各県の人にあたって工作をしようと言うので車で会場に向かった。会場は麻布の高台、 米国大使館の東側石畳のなだらかな坂を登っていったところで、経済審議庁長官官邸が当てられていた。そこには熊本県庁の振興局次長澤田君が来ていた。間もなく次々に関係各県の人達もやって来て、会場のあちちこちで 三々五々たむろして耳打ちの話が始まる。 東京都や長崎県のように最初から法案作成にあたった五県の間で、前日の審議会で候補にのぼっている島々 33を通すことは絶対反対だという。 しかしその島のうちには一ヶ町村位しかない 小さい島もあるから数ほどのことはないという者もある。とにかく33では多すぎる。指定の意味がないから制限すべしという。委員の園田君はいよいよ忙しそうに立廻っている。 定刻ごろになると会場は関係者で一杯になった。 30名の委員が思い思いに所定の席につく。 正面に会長綱島代議士(長崎県選出)、その両側に政府代表として、関係各省次官が並び、熊本選出の深見参議は審議庁次官として席を占め、元皇族の山階委員(東大理学部地理学教室勤務)が学識経験者として出席されている。 正面の会長席向かって右端が県知事(鹿児島、島根、長崎) 、左端が町村代表、中央に政府代表と向かいあって、衆参両議院代表の各議員が居並んでいる。会場のほぼ正面に園田君がいる。町村代表として 栄ある委員になったわが天草の新合村長大塚氏は、 髪を短く刈り上げた年若いきれいな婦人速記者の隣に老眼鏡をかけて控えている。 私は澤田君、森君と共に園田君の後方の補助席の一番前に頑張っていた 。綱島会長が巨体をゆっくり運んで会長席についたかと思うと、同氏は議事進行について図りたい、会を円満に進行させたいから、各委員だけ二階の方で懇談したいから上ってくれという。 会場の空気からして難航が予想される。各委員これに同意し皆席を立った。立って行こうとする園田、大塚委員のところに駆けつけ、 しっかり頼むぞと声をかける。 何大丈夫だよと園田君は声を残して去る。残された各県関係者は落ち着かない風で補助席で雑談に時を過ごす。 窓外の霧はいよいよ深く遂に雨となった。うす暗くなった室内には天井のシャンデリアのみがこうこうと輝いていた。 待たされること1時間半 。やっと二階からどやどや各委員が帰ってくる。早速園田君をとらえて聞くと十二島だけ 第一次指定になったという。勿論天草全島もその中に入っている。先ずこれで安心だ。森村長も会心の笑をたたえている。 まもなく会長は開会を宣し、今井田審議官をして、懇談会における指定の経過と結果を報告させた。指定された十二島とは、伊豆諸島(東京)、 佐渡ヶ島(新潟)、隠岐(島根)、対馬、壱岐、 五島(長崎)、天草(熊本)、屋久島、種子島、 甑島、長島、南西諸島 (鹿児島)であって、 他は情勢に応じ審議会の議を経て指定するとのである。会長は右の報告の結果について 決をとった。全員異議なし。ここに天草 全島の指定が確定したのだ。 鹿児島県知事から先に日本復帰の決定を見た奄美大島は次の指定に考慮されたい旨要望があった。なお 今井田審議官から今後の審議会の運営、特に各県において策定すべき振興計画案の取り扱い方について説明があったが、さしあたり昭和28年度としては予算の都合上、現在各県から提出中の計画を了承することとし 、月割計算で 本年度分として総額2億円余りをここから支出される旨の報告があった。とにかく本年度から議員立法である離島振興法に予算の裏付けができたのは、審議会としてはまったく成功で、本年度天草郡の事業として確定しているものには 新規事業、継続事業もいずれにも全額国庫補助がつくことになり、約5000万円余の割当てがあるということであった。結局全国分支出補助額の1/4強は天草が獲得することになったわけである。 それだけ補助額の多くなるのは当然で、 長崎県や鹿児島県が天草全島の指定に反対したのも肯ける。それで天草 のうち下島はよろしいが上島特に大矢野島は外海に面せず、かつ隔絶した孤島と言えないというので相当反対の空気が強かったが地理学体系から見て上島大矢野島を含めて一体となしているからこれを分離することは不合理であるという山階委員の発言も手伝って全島指定となったということだ。天草の指定に最初から最後まで奮闘を続け、人しれぬ労苦を重ね、頑張り続けてくれた園田代議士に対してはまったく感謝の外はない。会を終わって世話になった各委員に心からお礼の言葉を述べて玄関に出ると、雨はどしゃ降り。車寄せで車を待っている間に新潟の[[北れい吉]]氏(審議会委員、代議士) がやって来た。 同氏は初めから園田君の立場に対して好意的であったと聞いていたので、同氏を中心にして園田君、森君と共に玄関先に立って記念撮影をして別れた。衆議院会館の園田君の部屋に帰ると新聞記者諸君が見えたので連れ立って食堂に行き、天草指定を祝してビールで乾杯をした。|二神勇雄|「離島振興対策審議会傍聴記」天草民報、1953年10月18日号}}
{{quotation|昭和28年10月9日、この日はわが天草にとって 記念すべき日となった 。それは天草の歴史に、天草が離島としての経済的文化的後進性を脱却すべき一段階を画することになったからである。東京の街には、朝から霧が立ち込めていた。街路樹もビルも冷え冷えした空気の中で霧に濡れたっていた。私はその中を永田町の第一衆議院会館にいる園田代議士のもとに急いだ。前日の離島対策審議会では、天草も一応指定の線内に入ったものの、委員の中には強固論を吐く者もいるので上島特に大矢野島がはずされる危険がありやしないか。それに同日指定候補にのぼった島々が全国で33の多きに達しているが、天草も沢山の島を道連れにして結局放り出されるのではないか。 審議会の委員をしている某県の知事達が前夜ひそかに集まって協議をしているそうだが 、それは天草をはずす相談ではなかったろうか。このような心配が私の脳裏にあり、最後の断案の下される今日この日、秋霧の立ち込めた 薄暗い東京の街のようにわたくしの心にも冷たくおも苦しいものがあった。会館の園田君の部屋に入ると、樋島の森村長も約束どおり来合わせていた。前日の審議会で副会長の席を占めた園田君は会の空気をよく承知して大丈夫だ と言っている。成る程園田君が 副会長になる事は天草を認めてのことであろう。天草がはずされることはあるまい。とにかく会場に急ごう。 最後の頑張りだ。午前10時会の始まる前に各県の人にあたって工作をしようと言うので車で会場に向かった。会場は麻布の高台、 米国大使館の東側石畳のなだらかな坂を登っていったところで、経済審議庁長官官邸が当てられていた。そこには熊本県庁の振興局次長澤田君が来ていた。間もなく次々に関係各県の人達もやって来て、会場のあちちこちで 三々五々たむろして耳打ちの話が始まる。 東京都や長崎県のように最初から法案作成にあたった五県の間で、前日の審議会で候補にのぼっている島々 33を通すことは絶対反対だという。 しかしその島のうちには一ヶ町村位しかない 小さい島もあるから数ほどのことはないという者もある。とにかく33では多すぎる。指定の意味がないから制限すべしという。委員の園田君はいよいよ忙しそうに立廻っている。 定刻ごろになると会場は関係者で一杯になった。 30名の委員が思い思いに所定の席につく。 正面に会長綱島代議士(長崎県選出)、その両側に政府代表として、関係各省次官が並び、熊本選出の深見参議は審議庁次官として席を占め、元皇族の山階委員(東大理学部地理学教室勤務)が学識経験者として出席されている。 正面の会長席向かって右端が県知事(鹿児島、島根、長崎) 、左端が町村代表、中央に政府代表と向かいあって、衆参両議院代表の各議員が居並んでいる。会場のほぼ正面に園田君がいる。町村代表として 栄ある委員になったわが天草の新合村長大塚氏は、 髪を短く刈り上げた年若いきれいな婦人速記者の隣に老眼鏡をかけて控えている。 私は澤田君、森君と共に園田君の後方の補助席の一番前に頑張っていた 。綱島会長が巨体をゆっくり運んで会長席についたかと思うと、同氏は議事進行について図りたい、会を円満に進行させたいから、各委員だけ二階の方で懇談したいから上ってくれという。 会場の空気からして難航が予想される。各委員これに同意し皆席を立った。立って行こうとする園田、大塚委員のところに駆けつけ、 しっかり頼むぞと声をかける。 何大丈夫だよと園田君は声を残して去る。残された各県関係者は落ち着かない風で補助席で雑談に時を過ごす。 窓外の霧はいよいよ深く遂に雨となった。うす暗くなった室内には天井のシャンデリアのみがこうこうと輝いていた。 待たされること1時間半 。やっと二階からどやどや各委員が帰ってくる。早速園田君をとらえて聞くと十二島だけ 第一次指定になったという。勿論天草全島もその中に入っている。先ずこれで安心だ。森村長も会心の笑をたたえている。 まもなく会長は開会を宣し、今井田審議官をして、懇談会における指定の経過と結果を報告させた。指定された十二島とは、伊豆諸島(東京)、 佐渡ヶ島(新潟)、隠岐(島根)、対馬、壱岐、 五島(長崎)、天草(熊本)、屋久島、種子島、 甑島、長島、南西諸島 (鹿児島)であって、 他は情勢に応じ審議会の議を経て指定するとのである。会長は右の報告の結果について 決をとった。全員異議なし。ここに天草 全島の指定が確定したのだ。 鹿児島県知事から先に日本復帰の決定を見た奄美大島は次の指定に考慮されたい旨要望があった。なお 今井田審議官から今後の審議会の運営、特に各県において策定すべき振興計画案の取り扱い方について説明があったが、さしあたり昭和28年度としては予算の都合上、現在各県から提出中の計画を了承することとし 、月割計算で 本年度分として総額2億円余りをここから支出される旨の報告があった。とにかく本年度から議員立法である離島振興法に予算の裏付けができたのは、審議会としてはまったく成功で、本年度天草郡の事業として確定しているものには 新規事業、継続事業もいずれにも全額国庫補助がつくことになり、約5000万円余の割当てがあるということであった。結局全国分支出補助額の1/4強は天草が獲得することになったわけである。 それだけ補助額の多くなるのは当然で、 長崎県や鹿児島県が天草全島の指定に反対したのも肯ける。それで天草 のうち下島はよろしいが上島特に大矢野島は外海に面せず、かつ隔絶した孤島と言えないというので相当反対の空気が強かったが地理学体系から見て上島大矢野島を含めて一体となしているからこれを分離することは不合理であるという山階委員の発言も手伝って全島指定となったということだ。天草の指定に最初から最後まで奮闘を続け、人しれぬ労苦を重ね、頑張り続けてくれた園田代議士に対してはまったく感謝の外はない。会を終わって世話になった各委員に心からお礼の言葉を述べて玄関に出ると、雨はどしゃ降り。車寄せで車を待っている間に新潟の[[北吉]]氏(審議会委員、代議士) がやって来た。 同氏は初めから園田君の立場に対して好意的であったと聞いていたので、同氏を中心にして園田君、森君と共に玄関先に立って記念撮影をして別れた。衆議院会館の園田君の部屋に帰ると新聞記者諸君が見えたので連れ立って食堂に行き、天草指定を祝してビールで乾杯をした。|二神勇雄|「離島振興対策審議会傍聴記」天草民報、1953年10月18日号}}


離島振興法の対象に天草地域が指定された際には、以下のような森のメッセージが地元紙に掲載された。
離島振興法の対象に天草地域が指定された際には、以下のような森のメッセージが地元紙に掲載された。

2020年8月2日 (日) 22:00時点における版

森國久の生前の写真

森 国久(もり くにひさ、正字体:森國久、1912年明治45年)7月10日 - 1961年昭和36年)6月26日)は、日本の政治家熊本県天草地方で首長を務め、全国の離島の振興に力を注ぎ、天草五橋の実現に尽力した。

熊本県龍ヶ岳町長、熊本県町村会副会長、天草郡町村会長、天草振興協議会長、天草架橋期成会副会長、天草観光協会長、全国離島振興協議会副会長、内閣離島振興対策審議会委員(すべて死亡時)。

来歴

青年期から終戦まで

1912(明治45年)7月10日、熊本県天草郡樋島村(現・熊本県上天草市龍ヶ岳町樋島)に生まれる。1925年(大正14年)4月、熊本県立天草中学校(現・熊本県立天草高等学校)に入学。1927年(昭和2年)7月に熊本県立八代中学校(現・熊本県立八代中学校・高等学校)へ転校ののち、1930年(昭和5年)3月に卒業[1]。転校は熊本県立天草農業学校(現・熊本県立苓明高等学校)の生徒と乱闘した不祥事が原因とされる[2][3]

1930年(昭和5年)、朝鮮半島へ渡り二六新報に入社、新聞記者となる。記者時代には「森久」というペンネームを使った。記者としての足跡を示す資料はほとんど残っておらず、わずかに「船と包丁とクリーク」という随筆が一篇、投稿記事として確認されている[4]

1933年(昭和8年)1月に召集を受けるが、1934年(昭和9年)11月、満期除隊となり熊本へ帰る。1935年(昭和10年)6月、経緯は不明だが、熊本県警察部に警察官として就職。人吉警察署勤務となる。同年10月結婚。

国家総動員法が発令された1938年(昭和13年)3月、熊本県警察部の本部へと転勤となるも、同年10月、臨時召集され中国へ渡る。1940年(昭和15年)12月、召集解除となり帰国。警察官として復職。1942年(昭和17年)2月、熊本北警察署へ配属、特高課主任となる。1945年(昭和20年)8月の終戦を迎え警察署を退職[1]。この間の経歴については、1951年の新聞記事に以下のように紹介されている。

一度シャベリ出したら滔々立板に水・・・・とまでいかなくても、理路整然とした意見をのべまくるのが、龍ヶ岳村長森国久だ。だからといってシャニムニ自己の意志だけを押し通すという議論とはまた違い、引く時には引くスベを心得ている理知的な首長さん。そこで郡町村会あたりでは『カミソリ』の異名まである位のヤリ手村長だ。

まづ森村長の略歴を調べてみると、明治45年7月10日樋島村生まれ、天草中学二年生の時、天草農校生ら10数人と斬ったハッたの大乱闘を演じて退校寸前に至り、機をみた森氏はいち早く学校側の態度決定前に八代中学へ転校、職員会議を開いて悪童生徒の追放を協議していた教授連をアッと言わせたこともあった。学校を卒へるや大陸への夢絶ちがたく朝鮮へ渡り、二六新報社という政治新聞社に2年ばかりいて縦横に筆陣をハって世の社会悪と戦った。昭和10年6月、熊本県警察練習所に入所。同11年県巡査拝命、13年巡査部長拝命、更に半年後は警部補佐就任、トントン拍子の異様な出世ぶりをみせ、終戦当時は熊本北署の特高主任という要職にあった。

昭和26年、樋島村長選挙に出馬、見事強敵を打ち破って“村長の座”に就任、始めて郡政界にお目見得した。更に昭和29年樋島が高戸、大道と合併して龍ケ岳村として発足するや、再び初代村長に売って出てこれも見事当選。現在に至る。

「センダンは双葉より香し」と言うことばがあるが、学生時代から既に向こう見ずの生一本な性格で相当名を売り、天中時代の同級生園田直(現代議士)松岡義昌(現県議)氏らも一目おいていた位の腕白ぶりだったが、成人してからもこの気性はなかなか直らず、今もって時たま茶目っ気まじりの皮肉で町村会あたりをひっくり返すことがある。 この手腕?は、一方村政上にも大いに振るい、大体からウルサ型の多い樋島、高戸、大道の旧三ヶ村を合併町村中“一番恵まれた龍ケ岳”に育てた功績は文句なしに高く買わねばならない。

このほか事業面でも樋島ー高戸間の村営渡し船就航、高戸、樋島の水道敷設などは現在では大きな村の財源にもなっている。更に特異な村造りとして世人の注目を集めている「村道、部落道の舗装工事」は同氏が提唱した五カ年計画で毎年材料費か40万を村費で負担、労力を部落民の奉仕で行うという、言わば村民と村当局が一心同体の村造り事業である。等々・・・とにかくヤリ手村長だ。ほとばしる様な情熱は、必ずや龍ケ岳を住みよい明るい郷里に造りあげるであろう。

— 「おらが首長どんやりて村長の異名」天草新聞、1951年3月

故郷へ、そして村長に

終戦後、八代市へ移り住んだ森は、自宅に荒んだ青年を集めて「再生の道」を説き、また港の復旧奉仕作業に取り組んだ。1947年(昭和22年)、戦後の食糧供給安定のために、友人と熊本県協同組合水産会社を設立。併せて熊本県鮮魚船共同組合八代出張所所長も務め、漁業再生に取り組んだ。[5]1951年、故郷、樋島村の青年団有志から村長選出馬を要請され、同年5月の村長選に出馬。当選して地方自治行政の第一歩を踏み出した[6]

1953年(昭和28年)4月、国の離島振興法の動きを知るや、熊本県離島振興協会を結成、副会長となる。同年6月25日、全国離島民代表者決起集会に出席し演説。そして、森は参加者とともに全国離島振興協議会を結成し、副会長に選出された[7]

郡総合開発協会では5月12日、教育会館で理事会を開き、16日熊本県離島振興協会結成並びに郡総合開発協会の解散の打合せしたが、当日は桜井知事も出席する予定。尚本理事会に出席した県振興局の緒方技師は次の如く述べた。「天草は離島と言っても本土との距離が極めて接近しており、全島を法案に編入するのは困難という論もあるが、天草の特殊性を認めるよう我々は努力せねばならぬ。 — みくに新聞、1958年5月15日
去る6月17日、離島振興法案通過並びに天草編入陳情のため離島振興協会役員一行と上京した林田地方事務所長は一日帰任し「天草の編入は確実」と次のように語った。

「郡出身園田直吉田重延代議士はもとより、県出身議員の超党派的協力には感激の他ない。銀杏会には水上副知事と出席、内村、寺本参議、上塚司、吉田(安)大久保武雄各代議士に懇請、松野頼三自由党政調副会長、深水六郎経審政務次官らも全面的に協力を確約してくれた。法案提出の中心人物長崎県選出の綱島正興代議士は提案理由説明の際、速記録に残るべく天草編入理由を説明することになった。長崎、新潟、鹿児島、島根、東京、五都県に熊本県の割込みは完全に成功、25日の離島振興全国決起大会では吉田代議士は終始我々と行動を共にし、園田代議士は力強い挨拶を述べた。その後の情報によれば一都五県の離島振興協議会の副会長に熊本県離島振興協会副会長の樋島村長、森国久氏が決まった模様でますます力強い限りだ。同氏は29日の経済審議庁における法案委員会に出席、予算獲得などのため居残った。改進党から出す法案修正案説明には園田代議士が当たることになっておるが、これは各党了解済みで天草はより有利になろう。

離島振興理事として同行した松本佐伊津村長の談によると、25日第一議員会館会議室で開かれた全国離島振興決起大会では、熊本県の席は勿論、発言の予定すらなかったようだ。これには、一都四県は今までに多額の経費と時間を費やし、運動を続けており、加えて法案が通過して予算が計上されると、後で割り込んだ天草のために分け前は少なくなる等懸念し、歓迎しないとの予想は当たらずとも外れてはいない。しかし、県出身代議士が一都四県出身の代議士に了解を求め、先発の水上副知事、沢田一精振興局次長らの事前工作もあって、とにかく割り込みには成功、翌日の結成協議会(全国離島振興協議会)に副会長を天草から出すまでになった。 — 「天草編入極めて有望 森国久樋島村長が全国協議会副会長」みくに新聞、1953年7月3日)

離島振興法は同年7月成立した。本土との距離が近い天草は「離島振興法」適用は困難といわれる中、同年10月の第一回離島振興対策審議会で地域指定された。当時、熊本県議会議員だった二神勇雄は地域新聞の『天草民報』に、天草の地域指定を決定したこの審議会の傍聴記をよせた。

昭和28年10月9日、この日はわが天草にとって 記念すべき日となった 。それは天草の歴史に、天草が離島としての経済的文化的後進性を脱却すべき一段階を画することになったからである。東京の街には、朝から霧が立ち込めていた。街路樹もビルも冷え冷えした空気の中で霧に濡れたっていた。私はその中を永田町の第一衆議院会館にいる園田代議士のもとに急いだ。前日の離島対策審議会では、天草も一応指定の線内に入ったものの、委員の中には強固論を吐く者もいるので上島特に大矢野島がはずされる危険がありやしないか。それに同日指定候補にのぼった島々が全国で33の多きに達しているが、天草も沢山の島を道連れにして結局放り出されるのではないか。 審議会の委員をしている某県の知事達が前夜ひそかに集まって協議をしているそうだが 、それは天草をはずす相談ではなかったろうか。このような心配が私の脳裏にあり、最後の断案の下される今日この日、秋霧の立ち込めた 薄暗い東京の街のようにわたくしの心にも冷たくおも苦しいものがあった。会館の園田君の部屋に入ると、樋島の森村長も約束どおり来合わせていた。前日の審議会で副会長の席を占めた園田君は会の空気をよく承知して大丈夫だ と言っている。成る程園田君が 副会長になる事は天草を認めてのことであろう。天草がはずされることはあるまい。とにかく会場に急ごう。 最後の頑張りだ。午前10時会の始まる前に各県の人にあたって工作をしようと言うので車で会場に向かった。会場は麻布の高台、 米国大使館の東側石畳のなだらかな坂を登っていったところで、経済審議庁長官官邸が当てられていた。そこには熊本県庁の振興局次長澤田君が来ていた。間もなく次々に関係各県の人達もやって来て、会場のあちちこちで 三々五々たむろして耳打ちの話が始まる。 東京都や長崎県のように最初から法案作成にあたった五県の間で、前日の審議会で候補にのぼっている島々 33を通すことは絶対反対だという。 しかしその島のうちには一ヶ町村位しかない 小さい島もあるから数ほどのことはないという者もある。とにかく33では多すぎる。指定の意味がないから制限すべしという。委員の園田君はいよいよ忙しそうに立廻っている。 定刻ごろになると会場は関係者で一杯になった。 30名の委員が思い思いに所定の席につく。 正面に会長綱島代議士(長崎県選出)、その両側に政府代表として、関係各省次官が並び、熊本選出の深見参議は審議庁次官として席を占め、元皇族の山階委員(東大理学部地理学教室勤務)が学識経験者として出席されている。 正面の会長席向かって右端が県知事(鹿児島、島根、長崎) 、左端が町村代表、中央に政府代表と向かいあって、衆参両議院代表の各議員が居並んでいる。会場のほぼ正面に園田君がいる。町村代表として 栄ある委員になったわが天草の新合村長大塚氏は、 髪を短く刈り上げた年若いきれいな婦人速記者の隣に老眼鏡をかけて控えている。 私は澤田君、森君と共に園田君の後方の補助席の一番前に頑張っていた 。綱島会長が巨体をゆっくり運んで会長席についたかと思うと、同氏は議事進行について図りたい、会を円満に進行させたいから、各委員だけ二階の方で懇談したいから上ってくれという。 会場の空気からして難航が予想される。各委員これに同意し皆席を立った。立って行こうとする園田、大塚委員のところに駆けつけ、 しっかり頼むぞと声をかける。 何大丈夫だよと園田君は声を残して去る。残された各県関係者は落ち着かない風で補助席で雑談に時を過ごす。 窓外の霧はいよいよ深く遂に雨となった。うす暗くなった室内には天井のシャンデリアのみがこうこうと輝いていた。 待たされること1時間半 。やっと二階からどやどや各委員が帰ってくる。早速園田君をとらえて聞くと十二島だけ 第一次指定になったという。勿論天草全島もその中に入っている。先ずこれで安心だ。森村長も会心の笑をたたえている。 まもなく会長は開会を宣し、今井田審議官をして、懇談会における指定の経過と結果を報告させた。指定された十二島とは、伊豆諸島(東京)、 佐渡ヶ島(新潟)、隠岐(島根)、対馬、壱岐、 五島(長崎)、天草(熊本)、屋久島、種子島、 甑島、長島、南西諸島 (鹿児島)であって、 他は情勢に応じ審議会の議を経て指定するとのである。会長は右の報告の結果について 決をとった。全員異議なし。ここに天草 全島の指定が確定したのだ。 鹿児島県知事から先に日本復帰の決定を見た奄美大島は次の指定に考慮されたい旨要望があった。なお 今井田審議官から今後の審議会の運営、特に各県において策定すべき振興計画案の取り扱い方について説明があったが、さしあたり昭和28年度としては予算の都合上、現在各県から提出中の計画を了承することとし 、月割計算で 本年度分として総額2億円余りをここから支出される旨の報告があった。とにかく本年度から議員立法である離島振興法に予算の裏付けができたのは、審議会としてはまったく成功で、本年度天草郡の事業として確定しているものには 新規事業、継続事業もいずれにも全額国庫補助がつくことになり、約5000万円余の割当てがあるということであった。結局全国分支出補助額の1/4強は天草が獲得することになったわけである。 それだけ補助額の多くなるのは当然で、 長崎県や鹿児島県が天草全島の指定に反対したのも肯ける。それで天草 のうち下島はよろしいが上島特に大矢野島は外海に面せず、かつ隔絶した孤島と言えないというので相当反対の空気が強かったが地理学体系から見て上島大矢野島を含めて一体となしているからこれを分離することは不合理であるという山階委員の発言も手伝って全島指定となったということだ。天草の指定に最初から最後まで奮闘を続け、人しれぬ労苦を重ね、頑張り続けてくれた園田代議士に対してはまったく感謝の外はない。会を終わって世話になった各委員に心からお礼の言葉を述べて玄関に出ると、雨はどしゃ降り。車寄せで車を待っている間に新潟の北昤吉氏(審議会委員、代議士) がやって来た。 同氏は初めから園田君の立場に対して好意的であったと聞いていたので、同氏を中心にして園田君、森君と共に玄関先に立って記念撮影をして別れた。衆議院会館の園田君の部屋に帰ると新聞記者諸君が見えたので連れ立って食堂に行き、天草指定を祝してビールで乾杯をした。 — 二神勇雄、「離島振興対策審議会傍聴記」天草民報、1953年10月18日号

離島振興法の対象に天草地域が指定された際には、以下のような森のメッセージが地元紙に掲載された。

ー、全国三千有余の島々―さらに離島振興法の適用条件はワク内の三十三島中から、こんど天草を含む十二島が指定を受けたことはまさに歴史的な事実であり、この運動に携わって来た者として強い感動を覚えざるを得ませんでした。しかしすでに今日天草が指定されるまでの経緯、過程、曲節を今さら云々するよりも天草を如何に「計画振興」させるかの諸問題と取り組まねばならぬ時機に立ち到ったことを知らねばなりません。

二、どの港を、どの道路をどうするということも重大ですが、ここでは根本的問題といいますか、計画振興を運営してゆく上における理念といったものを取り上げてみたいものです。先ず第一に、振興法の適用を受けたのだから―座して手をこまねいて「振興待つものあり」とする考え方がもし郡市民の間にありとするならば法の指定で郷土発展百年の計を毒すること夥しいといわねばなりません。自らの郷土を自ら振興させる逞しい意欲の基礎の上に立って手を引き腰を押し上げてこそ、やがて道は拓け花は咲き、実も結ぶでありましよう。

三、第二は、法の適用によって当然起こって来る本年度からの県費及び町村費の節減余裕に伴なう問題であります。国費といい県町村費と申しましても同じ流れの「国民」という源から滲む思いで流れ出る税金であります。離島振興法の国費補助によって浮いた町村費を不時の収入があったかのように軽くあしらい、町村の振興、町村民の福祉増進にその節減余裕金を振り向けなかったら、その町村の理事者は国民の名においてその非を厳しく指摘されなければなりますまい。

四、第三に、離島振興協会運営の問題であります。従来、本郡の振興発展を目的として天草総合開発協会がありましたが、半年前知事を会長とする「熊本離島振興協会」の発足により発展解消を遂げたもので、総合開発協会が過去三年間に培養して来た地力すなわち親木に接木された協会という関係において発足したのであります。本協会は町村の共同振興連合体であり、「和を第一とする」原則に基く協会である以上、今後はこの原則を忘れて運営されることがあってはならないのであります。

五、今日までの歩みには種々の問題もあり、内面的な波瀾もあったのですがそれにこだわることは郡の振興策を誤る以外の何物でもないのでありまして、今後天草の振興計画を樹立するに当っては大局に目をおおうことなく町村相互の和を図るとともに共同意識を高め率直にそれぞれのカをだし合い、郷土十年の計画を問題とすべきでありましよう。協会理事の一人として自ら責め省みるゆえんであります。

指定の後に来る根本的諸問題を取上げたものの意尽さざるをおわびし今後の協会運営に対し郡民各位の建設的批判と御鞭撻をお願いいたします。 — 森国久、「離島天草振興の諸問題」天草民報1954年11月15日

1954年(昭和29年7月)、町村合併促進法(法律第二百五十八号、昭和28.9.1)に基づいて、高戸村、樋島村、大道村三村合併で龍ヶ岳村が誕生。村長選挙に当選し、初代村長となる。1955年(昭和30年)1月、内閣総理大臣の諮問機関「離島振興対策審議会」の委員となる[8]。「離島振興法実施地域」の指定をはじめ、数次にわたる離島振興法の改正、離島振興予算一本化の達成、経済企画庁内に離島振興課創設の実現。年々の離島予算の獲得、そして「開拓」「山林造林」「漁港修築」「道路改良、拡張、新設」「港湾整備、浚渫、防波堤整備」「住宅建設」「簡易水道敷設」「学校校舎建築」「保育園建設」「発送電施設設置」など、多くの施策の実施のために尽力した。これらの離島振興の地域指定が解除になるまで約1300億円が天草に投入された[8][9]

天草架橋の実現のための道のり

天草と九州本土の間に橋を架けるという構想は戦前、何度も持ち上がっていた。井上重利『略史 天草の歴史五十年』(みくに社)によると「大正年間」であるが「これは全くの夢に終わった」とある。

この天草島のおくれをとりもどす根本的な方法は、本土と陸つなぎにして、離島でなくすることが必要で、昭和の初期にいだかれた『天草島と本土を橋で結び、本土なみに発展させたい』という先覚者の夢は、時を追って現実化し、昭和29年から『天草架橋』として具体的に調査が進められ、31年には日本道路公団が発足したので、公団にお願いしてさらに調査を進めた結果、ここに地元島民の熱意が実を結び、今年から着工することになったのである。 天草上島と下島の間の本渡瀬戸に橋が架り、この二つの島が一つになったのは大正末期であるが、そのころからいっそのこと天草島を宇土半島に結びつけたらと考えられていた。 さらに、昭和7年、たまたま県議会で各地の雄大な開発着想が話題になったとき、『本土ー天草問の架橋』が提唱されて架橋の端緒となったのである。 その後、当時の関門鉄道トンネルエ事に刺激されて、昭和11年11月の県会で、一議員が『三角から大矢野島に橋を架け、大矢野島と天草上島を優秀な連絡船で結び、天草を九州本土に直結し、島内幹線道路を整備して、交通の開発をはかれば、20万郡民が他の地方と同じ文化の恵沢に浴することができる。』という発言もされたが、その頃としては、技術的にも資金的にも問題が大きく、まだまだ“夢のかけ橋”の域を出なかった — 「天草架橋:3.これまでのいきさつ 端緒」『熊本県広報』1962年2月,p.15

しかし離島振興法の指定を受ける動きの中で天草架橋実現の機運が高まる。1954年(昭和29年)12月「天草架橋期成会設立総会」が開かれる。会長は熊本県知事桜井三郎で、森は市町村代表の一人として加わる。

「瀬戸開鑿」と「天草架橋」の問題は離島天草が初まって以来の最大且根本的な課題として二十四万郡市民の心を揺り動かしている。離島振興は天草が離島でなくなることが最終目的であるとすれば天草架橋の解決はその最終目的をー挙に解決せんとすることになる。従来天草の諸問題はややともすればいわゆる政治家達が或いは行政官庁など一部の者の問題として郡市民の関知せざるところであったが、こんどこそ24万郡市民のものとして解決しなくてはならない。事業費15億という金は並み大抵のものではないけれども国の予算1兆円に比ぶれば1厘5毛にすぎない」 — 森国久、「島民のものとして」天草民報1955年1月1日

1955年(昭和30年)3月、天草全島民との一体的運動として「島民一人一円献金」の運動を提案し実行した。全国離島振興協議会の事務局長を務めた、民俗学者の宮本常一はかつて天草へより多くの国の補助を求める森と論争したが、その際に宮本が出した意見をヒントにしたこの運動を評価し、森の没後の1962年におこなった講演で以下のように述べた。

私は天草架橋には大きな関心を持っている。昭和二九年(一九五四)の理事会で天草の森副会長さんが、天草は貧しいから特に多くの国の補助を仰がねばならないといった。私はそのいい方が納得できなかったので二人で大論戦したことがある。その時、私は恩師の渋沢敬三先生が南方同胞援護会の会長をしていた関係から、沖縄における戦災の復旧資金を全国小中学校の生徒の寄付にまち、それが動機で、進駐軍が立派な校舎を建てた話をした。森さんはそれから一円献金運動をおこし天草架橋を計画した。その金が起工式の時に1200万円集まったと聞いた。献金するとき、島民はこの金は橋を架けるための金だというはっきりした目的を持って出す。一人一人頭の中に橋をかけなければならぬという意識を植え付けることになる。この熱意が政府を動かした原動力であったと思う。これがほんとうの島の自主性だ。今や離島は全国的に手を結び、もっともっと団結を強固にしなくてはいけない時だ」 — 宮本常一、第8回全国離島青年会議講演「青年推進員の役割と使命について」(1962年11月2日)[10]

同時に、平地が少なく陸路に恵まれない天草の地では「架橋は道路網の拡充なくして袋小路となる」と、島内道路網整備の必要性を説いた[11][12][13]

「天草郡市民の皆様新年おめでとうございます。ここに一九六〇年の新春を迎え将来の天草発展の構想の一端を述べてみますと先ず何といいましても天草発展の基礎をなすものは天草架橋であると思います。架橋が三十六年度に着工し三十八年度に完成した暁には天草各地から中心の本渡に全部二時間で集まれます。また道路網(池の浦―本渡線、帯取線、富岡―崎津港線、蛤線等)は三七年度に全部開通します。天草に渡る本土の足も天草架橋、口ノ津―鬼池線、富岡―茂木線、牛深―長島線、龍ヶ岳―田ノ浦線、八代―姫戸線等にフェリーボートが通り、鹿児島、熊本、長崎各地との交通は大変便利になります。天草は正に一市となるわけであり、二十四万の人口を有する天草市の誕生も決して夢ではありますまい。産業も文化も一体にならぬと天草の発展は期せられず、各市町村一致して農業、文化、観光の発展に邁進せねばなりません。天草の経済は将来北九州の工業地帯と直結し大矢野の花卉、各地の抑制栽培農業等は直接北九州へ出荷され、牛深の魚も熊本発の一番機で北九州へ移出され、鮮度が高ければそれだけ価格も上昇します。結論として天草は一市であり、今後天草島民一丸となって島民所得の向上を目指すべきだと思います — 森国久、「交通第一」みくに新聞、1960年1月1日
「吉見教英先生お変わりありませんか。天草国立公園の産みの親である下村海南先生が逝かれて、満三ヶ年になります。又郷土天草が待望の国立公園に指定されてから早くも4年になります。真に感慨新たなものがあられましょう。

吉見先生、先生を始め天草全島民が寝ても覚めても、その実現を待っている『天草架橋』の実現も、時の問題となりました。当初、五百万円の調査費でしたが、本年中に尚五百万円を追加し、一切の調査を35年度中に終わろうとしています。

一方、橋に関連する道路も、34年度から着手し、37年度に完了する事となりました。郡市民の夢はここに、その緒についたと云えましょう。

吉見先生、天草の観光も遅まきながら、この『天草架橋』実現によって、大きくしかも、着実に天下の天草となることも遠くはないでしょう。しかも天草の『池の浦―本渡線』『富岡―崎津線』、帯取線、西高根線、蛤線等これらの環状線道路もようやく36年度で完成しようとしておりますが、『観光』すなわち『道路』の目標にはまだまだ遠い現状でございます。

吉見先生、私はこの道路の整備に、今後、天草島民は元より、県も国も重点的にその整備を図り、天草の36年度以降の重要課題とせねばならないと思います。

ここに島民の幹線道路をあげますと、『本渡―大浦線25キロ』『本渡―牛深線48キロ』『本渡―富岡線32キロ』『富岡―下田線13キロ』『下田―本渡線28キロ』『池の浦―三角線47キロ』『本渡―栖本経由合津線65キロ』計278キロで、これを舗装する工事費は17億5400万円の費用が必要であります。17億の予算は莫大ではございますが、地元市町村、県、国が一体となり、道路舗装10ヶ年計画を立てまして、これを完成するのはそう至難ではないと思います。天草郡市はひとつになり、各市町村が共にその運動を展開する事が急務ではないかと思います。

吉見先生、国立公園ー天草架橋―舗装道路が出来ますと、天草の観光が名実共に世界的となる事でしょう。その時こそ天草は、観光、産業の大恩恵を受けるのでしょう。

私はここに道路舗装10ヶ年計画を、より早く計画するために、天草道路舗装公社と云う公社をつくり、10ヶ年計画を5ヶ年にして実現したいものであります — 森国久、「舗装道路10年計画」みくに新聞、1961年1月1日

天草振興協議会会長として、熊本県知事との連名で天草を代表し、建設省日本道路公団への陳情を重ねた。年数回開催される全国離島振興協議会の会議及び離島振興対策審議会の中央における動きに併せ、天草架橋実現の陳情も兼ねて度々上京した。陳情書の一つには以下のように記されている。

天草架橋の計画は永年に亘る島民の念願でありましたが、幸にも関係各方面のご理解とご援助のもとに愈々本格的調査を実施していただく事になりましたことは、誠に感謝に耐えない所でありまして、茲に厚く御礼申上げる次第で御座います。

この本格的調査は、やがて近々着工を約束されたものと確信し、今や二十四万島民の架橋実現への熱意は極めて大きなものがありますので、この際更に左記に関し関係御当局に於いてご検討をいただき早急に御解決賜りますよう重ねて御願い申し上げます。

一、昭和三十四年度調査費2000万円計上方を要望する。
二、昭和三十四年度調査を完了し、昭和三十五年度着工を要望する。
三、建設省の公共事業費は、離島振興事業費の枠外に於いて計上方を要望する。
四、連絡道路の一部を本年度救農土木事業として実施方を要望する。
五、昭和三十四年四月一日より、架橋調査事務所の設置方を要望する。

右の通りで御座いますので、何卒特別の御詮議をもって御採択の上宜しくお取計賜りますよう天草二十四万島民を代表して茲に陳情いたします。

昭和三十三年十一月二十一日

天草架橋期成会長   桜井三郎

天草振興協議会長   森国久 — 1958年11月21日建設省等への陳情書

内閣離島振興対策審議会における、各省の事務次官との交渉は天草架橋実現に力となった。その中には、鈴木俊一(のちに東京都知事)、小林与三次(のちに日本テレビ放送網社長)、平井富三郎(のちに新日本製鐵社長)、石破二朗(のちに鳥取県知事)、小野吉郎(のちに日本放送協会会長)、森永貞一郎(のちに日本銀行総裁)、荒木茂久二(のちに帝都高速度交通営団総裁)などがいた[14]

この間、島内の各種組織、協会等を統合して1956年(昭和31年)7月、「天草振興協議会」を設立し会長となる。天草郡町村会長、天草振興協議会会長、架橋期成会副会長、天草郡観光協会会長、その他離島振興関係の要職を兼務した。

1961年(昭和36年)5月、1959年から就任した知事の寺本広作とともに天草架橋の陳情で上京し、事業着手を確実なものとした。ひと月後の6月に出張中に倒れ、同月26日逝去。没年の1月に新聞に寄稿した挨拶文には以下のような内容が綴られている。

昭和36年も忙しい年になりそうです。六日、七日と本年度の離島予算の最後の折衝のため五日に上京、引き続き問題の「天草架橋」で滞在、九日には寺本知事を初め地元県議、中央世話人と合同会議を開き、公団の二億要求-本年度着エの旗の下に、その実現を期する”勝負”万潮時が来たと思います。そして十日、十一日は全国町村長大会です。

選挙に臨むこと三回-二十六年から十年になります。一日も無駄なく懸命であったつもりですけれど、思い半ばです。私はいつも思います。「政治の心」は、その住民の生活がーより豊かに―より安全に―さらに―いついつまでも、変わらないで安心して暮らせることにあると、・・・・。

今日ほど差のひどい時代はない様な気がします。都会と田舎の差、なかなかおい追いつけない地域の差、所得の格差、そして暮らしの差。どうすれば「その差」を縮めることが出来るかが、身近に迫る今日の課題ではないでしょうか。

「天草架橋」を一日も早く実現することも大きな解決の一つ、と思います。

離島振興法は後二年で終ります。これを延長することは、もちろんですが、私たちはこの際、住民の血となり肉となる「産業振興計画」を急がねばならない気が致します。私たちの町でも、新春早々この問題と取り組み「五カ年計画」を実施するため各界人を集め、常置機関として、その計画を検討するように致しております。

中学の整備を急ぐのも大事ですが、その後に来る高校進学も大きな問題となります。実業高校を天草に実現したいのは天草人の願いでもあります。その場所が問題をはらむのでは、と今から心配されます。少なくども考えを統一して、大局につかねばなりますまい。

ー月一日から龍ヶ岳町は“福祉三法”(条例)を実施しました。産業、文化の振興を図れば図るほど・・・所得倍増計画の時代であればあるほど・・・脱落者を心配することをわすれてはならないと思います。暗い谷間を明るくする社会福祉。満足ではありませんが「底辺の線のささえ」になればと思う気持ちのあらわれです。元日に当たり“けいけん”な気持でー杯です。とまれ、現実を踏まえながら、理想を持ち、夢を追い、龍ヶ岳町を愛し、そして、郷土天草の発展を希うことの思いを深く致します — 森国久、「昭和36年ことしの展望 ことしの天草も多忙」天草民報1961年1月8日

残した構想と功績

「天草はひとつ」と天草架橋開通後は天草を一つの「特例市」とする構想を発表している。そして天草を、当時国交のなかった中国や朝鮮[15]との貿易の拠点とし、世界的な観光地へと変え、温暖な気候を利用した果樹の栽培などの構想を示した。また当時、散逸が危惧されていたキリシタン関係の遺跡等の保存や、歴史資料館の建設を提唱した[16][17]。これらの施策については1957年、1959年の1月に新聞に寄稿した挨拶文で以下のように触れている。

新しい年を迎え24万島民の皆さんと共に祝賀申し上げます。

思いますに昨年は町村合併の促進、各種団体の統合、国立公園の指定及びこれに伴う計画樹立と促進、天草架橋問題、国道指定、本渡瀬戸開削の国営移管、又多年要望の自治会館の建設、離島予算一本化に伴う法律改正等、重要なる問題山積、しかも一方地方再建第一年の苦しい年でありました。

不敏ながら天草振興協議会の初代会長として、又内閣の離島対策審議会委員として、その責の重さを肝に銘じながら、皆様の御鞭撻御協力添えにより今日に及びましたものの、この山積みする諸重要問題の中に苦闘、まことに切なるものがあります。

しかしながら、新しい年を迎え覚悟を新たにし、情熱を傾け、またあせらず腰を据え、郡市民の皆様と共に手と手、心と心との融和を信条として、問題解決の年と致したいものであります。然して天草文化の香り高き郷土館(仮称)の建設を提唱して年頭の辞といたします — 森国久、「新春を迎えて 夢の架橋や国道問題など」天草新聞、1957年1月1日
郷土天草の島々は美しい、この天然の資源の上に薫り高い文化的な観光施設をと念願するわたしは、わたしらしい新年の夢を描いてみました。この夢は実現可能であり、郷土を愛する皆様とご一緒に考えたいものとあえて提唱する次第です。

一、離島振興事業  もう天草架橋は現実のものです。離島振興法についても旧ろう上京して新年度予算の増額運動を行いましたが、昭和33年度より4億円増加して、全国国費24億円が第一次査定をパスし、とくに港湾、漁港、道路予算は伸張し、本土並みの予算になりました。

二、郷土館の建設  キリシタン殉教の島である天草には祖先の遺された文化財が沢山あると思いますがほとんど死蔵されていることは惜しいことです。各方面の協力を得てなんとか保管するようにしたいものです。

三、植物園の造成  亜熱帯植物の育つ

島であり、地域によってはバナナも実る気候です。

四、水族館の建設    東京の上野公園には海水の水族館があります。四面海に囲まれた天草島に水族館のないことは淋しいきわみです。天草では熱帯魚の飼育も簡単だと思います。

五、体育館の建設    野球場、プールの設置とともに郷土スポーツ振興の上から早急に実現すべき。

六、ホテル、娯楽施設の増設  外国観光団の来島に備え、特に天草架橋完成後の観光客激増に対応して特別の配慮が望まれます — 森国久、「年頭に当りて」みくに新聞、1959年1月1日

一方、町政にあっては島内きっての後進性から脱皮させることを目標として多くの施策を実行した。特に全国にさきがけて母子福祉、身体障害児童、戦没者遺族年金条例等の「福祉三法」を制定した[18][19][20]

 龍ヶ岳町では元日から町民にすばらしいお年玉が贈られた。十二月定例町議会で町母子福祉年金条例、身体障害児童年金条例、戦没者遺族年金条例のいわゆる“福祉三法”がきめられ、一日から施行されたからだ。昭和三十年から実施している老齢年金条例とともに“社会福祉の町”となった。なにしろ全国でも身体障害児童年金は広島県大野町で施行されているが三法そろって町の単独施行となったのは初めてのことだ。“となりといっしょに楽しみたい”という森さんの、これはヒューマニズムから生まれたものだ。

森さんは同町樋島生まれ、この人は戦時中警察界で活躍、戦後は水産貿易事業に奔走したが請われて昭和26年樋島村長に当選。以来、樋島が高戸、大道三ヶ村が合併して龍ヶ岳村となって初代村長となり、“町長”として経験十年のベテランだ。仕事の鬼と自他共に認めている。終始何かを考え、プランを練っている。夢と創造力の豊かなこの人は話が尽きるところを知らない。カミソリのような切れ味のいい頭で仕事を片付けると定評で“町長のような頭の回転の速い人にはついていけない”と職員たちがぼやいている。だが、自分だけ先走りしないようにブレーキをかける時も心得ている。行動半径が広くて片時もじっとしておれない性格だが、経験が深いだけに“人間的な幅”が最近は特に広くなったという人もある。

三条例によって日の当たるのは50世帯、90人ぐらいと三条例を具体化した厚生課長の坂本仲市さんはいっている。

この予算は年50万円くらいだ。年間一億円を超えようとする町の予算内では微々たるものだが、"億単位の事業に相当する三条例だ”と、谷間の人たちにスポットをあてることに懸命の努力をはらっている。

そういえば自宅から役場への出勤、退庁のコースも毎日変えるという森さんはその往復で一人でも多くの人たちに言葉をかけたいというのが願いだ。暴力を極度ににくむこの人の柔和さはかっての警察の体質から生まれたのであろうか。寸暇を惜しんで書物を読んでいる。頭脳的な“青年森さん”にとって黄金の年が明けたのだった。

天草島からはみ出しそうな活躍をみせるこの人は、全国離島振興協議会のほか内閣離島対策審議委員、郡町村会長など多くの公職に精力的な働きをみせている。モットーは“仕事こそ生きガイ” — 「<熊本の顔>“全国初の“町の福祉三法”を施行した龍ヶ岳町長」熊本日日新聞、1961年1月7日

脚注

  1. ^ a b 森・段下(2016)、351頁
  2. ^ 「おらが首長どん」天草新聞、1956年3月
  3. ^ 「おやじ」西日本新聞、1956年9月5日
  4. ^ 森・段下(2016)、24頁
  5. ^ 地方創生に駆けた男熊本出版文化会館発行、2016年9月24日発行、29頁より引用
  6. ^ 「町村の人物65 樋島村の巻」みくに新聞、1951年11月8日
  7. ^ 森・段下(2016)、44頁
  8. ^ a b 離島振興30年史編纂委員会(編)『離島振興三十年史』(上)、全国離島振興協議会、1989年、pp.23 - 24
  9. ^ 「森副会長急逝」『しま』第25号、全国離島振興協議会、1961年7月
  10. ^ 『宮本常一離島論集別巻』2013年 、みずのわ出版 147頁 (初出は季刊『しま』第32号、1963年2月)
  11. ^ 「交通第一」みくに新聞、1960年1月1日
  12. ^ 「道路舗装十年計画」みくに新聞、1961年1月1日
  13. ^ 『宮本常ー離島論集』別巻、みずのわ出版、2013年[要ページ番号]
  14. ^ みくに新聞、天草新聞、天草民報の1953年 - 1961年の記事参照
  15. ^ 日韓基本条約によって、日本が大韓民国を「朝鮮を代表する政府」として国交を結んだのは1965年である。
  16. ^ 「新年の課題を語る」『龍ヶ岳(公民館報)広報』1961年1月1日
  17. ^ 「天草 行政の一本化を」西日本新聞』、1961年8月22日
  18. ^ 熊本県天草郡龍ヶ岳町『広報』、昭和36年1月号
  19. ^ 「熊本の顔“ゆたかな夢と創造力"」熊本日日新聞 1961年1月7日
  20. ^ 「人は仰ぐこの町長」西日本人事新聞、1961年5月20日

参考文献

  • 森純子・段下文男(編著)『地方創生に駆けた男 天草架橋・離島振興に命を賭した森國久』熊本出版文化会館、2016年

外部リンク