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生家は[[江戸]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]の割烹・金春屋。屋根葺棟梁の北氏を継ぐ。[[狂歌]]を[[元木網]]に、[[国学]]を[[山岡浚明]]に学ぶ。江戸[[深川 (江東区)|深川]]に住し、博覧強記をもって[[村田了阿]]と並称される<ref>{{Cite book|和書|author=関隆治・編|year=1943|title=國学者著述綜覧|publisher=森北書店|pages=74p}}</ref>。行年83。西久保巴町の[[天徳寺 (東京都港区)|天徳寺]]に葬る。 |
生家は[[江戸]][[新橋 (東京都港区)|新橋]]の割烹・金春屋。屋根葺棟梁の北氏を継ぐ。[[狂歌]]を[[元木網]]に、[[国学]]を[[山岡浚明]]に学ぶ。江戸[[深川 (江東区)|深川]]に住し、博覧強記をもって[[村田了阿]]と並称される<ref>{{Cite book|和書|author=関隆治・編|year=1943|title=國学者著述綜覧|publisher=森北書店|pages=74p}}</ref>。行年83。西久保巴町の[[天徳寺 (東京都港区)|天徳寺]]に葬る。 |
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==著作・編著== |
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2020年8月2日 (日) 21:56時点における版
北 静盧(きた せいろ、明和2年(1765年) - 嘉永元年3月29日(1848年5月2日))は、江戸時代中期の民間の学者。本姓は鈴木。名は慎言(ちかのぶ)。字は有和。通称は三左衛門(三右衛門)。静盧(精盧)の他、梅園、四当書屋、網破損針金という号がある[1]。
略伝と逸話
生家は江戸新橋の割烹・金春屋。屋根葺棟梁の北氏を継ぐ。狂歌を元木網に、国学を山岡浚明に学ぶ。江戸深川に住し、博覧強記をもって村田了阿と並称される[2]。行年83。西久保巴町の天徳寺に葬る。
町人の学者として、狩谷棭斎(津軽屋三右衛門)・市野迷庵(市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される[注釈 1]。貧しい生計を立てながら酒は一滴も飲まず、暇さえあれば著述の筆をとったという。火事で三度も著書を焼き、改めて稿を起こすと前のと少しも違わなかったとも伝えられる[4]。彼の性格については、喜多村信節が「お祭りを見るのが好きだった」と書いている。
著作・編著
- 東鑑不審問答補正
- 宇治拾遺物語抄 3巻
- 寛平以来公卿年表
- 五雑俎訓纂 16巻
- 胡蝶の夢 5巻
- 四時雑識 13巻
- 四書笑附譯
- 傷寒論後條辨解 2巻
- 水滸伝新譯 12巻
- 静盧雑抄 4巻
- 雪案呵筆 2巻
- 続古事談註 5巻
- 俗語類譯 20巻
- 園の梅 5巻
- 梅園日記 5巻 - 朝川善庵の序あり
- 譯語正偽 6巻
- 静廬俗考
- もとの雫
脚注
注釈
脚注
参考文献
- 中根粛治・編『慶長以来諸家著述目録 和学家之部』(1893年、青山堂支店)