コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「黒川春村」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
通称は勘吉、治平、次郎左衛門、名は主水。薄斎、芳蘭、葵園など、多数の号を用いた。
通称は勘吉、治平、次郎左衛門、名は主水。薄斎、芳蘭、葵園など、多数の号を用いた。


江戸・[[浅草]]田原町の陶器商の子として生まれるが、家業を継がず2世[[浅草庵]]に[[狂歌]]を学び、3世浅草庵を継いだ。後に[[和歌]]に転じて[[国学]]へと発展した。[[狩谷エキ斎|狩谷棭斎]]に国学や[[考証学]]を学び、また[[本居宣長]]からも影響を受けた。
江戸・[[浅草]]田原町の陶器商の子として生まれるが、家業を継がず2世[[浅草庵]]に[[狂歌]]を学び、3世浅草庵を継いだ。後に[[和歌]]に転じて[[国学]]へと発展した。[[狩谷棭斎]]に国学や[[考証学]]を学び、また[[本居宣長]]からも影響を受けた。


博識で特に[[音韻]]、考証学に優れており古美術にも通じていた。[[伴信友]]、[[清水浜臣]]、[[岸本由豆流]]、[[内藤広前]]などと交流が深かった。また、信州[[高井郡]]の[[須坂藩]]主[[堀直格]]とも知己の間柄であり、共に学問の考究を補助した。春村は直格の著作に序文を寄せている。慶応2年(1866年)没、68歳。四人の実子がいたが、そのいずれも嫁いだり、他家に養子に入ったため、弟子の[[黒川真頼]](旧姓金子)を養子に迎えて黒川家を継がせだ。夥しい量の著作を書き上げたが、その内出版されたものはごく僅かであった。主な著書に『音韻考証』等がある。墓所は浅草の[[永見寺]]。
博識で特に[[音韻]]、考証学に優れており古美術にも通じていた。[[伴信友]]、[[清水浜臣]]、[[岸本由豆流]]、[[内藤広前]]などと交流が深かった。また、信州[[高井郡]]の[[須坂藩]]主[[堀直格]]とも知己の間柄であり、共に学問の考究を補助した。春村は直格の著作に序文を寄せている。慶応2年(1866年)没、68歳。四人の実子がいたが、そのいずれも嫁いだり、他家に養子に入ったため、弟子の[[黒川真頼]](旧姓金子)を養子に迎えて黒川家を継がせだ。夥しい量の著作を書き上げたが、その内出版されたものはごく僅かであった。主な著書に『音韻考証』等がある。墓所は浅草の[[永見寺]]。

2020年8月2日 (日) 21:55時点における版

黒川 春村(くろかわ はるむら、寛政11年6月9日1799年7月11日) - 慶応2年12月26日1867年1月31日))は、江戸時代末期の江戸の国学者にして歌人

略歴

通称は勘吉、治平、次郎左衛門、名は主水。薄斎、芳蘭、葵園など、多数の号を用いた。

江戸・浅草田原町の陶器商の子として生まれるが、家業を継がず2世浅草庵狂歌を学び、3世浅草庵を継いだ。後に和歌に転じて国学へと発展した。狩谷棭斎に国学や考証学を学び、また本居宣長からも影響を受けた。

博識で特に音韻、考証学に優れており古美術にも通じていた。伴信友清水浜臣岸本由豆流内藤広前などと交流が深かった。また、信州高井郡須坂藩堀直格とも知己の間柄であり、共に学問の考究を補助した。春村は直格の著作に序文を寄せている。慶応2年(1866年)没、68歳。四人の実子がいたが、そのいずれも嫁いだり、他家に養子に入ったため、弟子の黒川真頼(旧姓金子)を養子に迎えて黒川家を継がせだ。夥しい量の著作を書き上げたが、その内出版されたものはごく僅かであった。主な著書に『音韻考証』等がある。墓所は浅草の永見寺

学問

著書

  • 『音韻考証』
  • 『並山日記』
    嘉永3年(1850年)刊行。江戸から甲州道中を旅し甲斐国に至り、身延詣を経て東海道から箱根を経て江戸に帰るまでの紀行文。道中では旧家・古寺社を訪ね文化財の調査も行っており、『甲斐国志』等の文献を引用した考証を行っているほか、彩色図を数多く掲載している。写本は「若尾資料」「甲州文庫」本(ともに山梨県立博物館所蔵)など。翻刻は『甲斐志料集成』(第3巻、1981)がある。
  • 『碩鼠漫筆』

参考文献

  • 中根粛治・編『慶長以来諸家著述目録 和学家之部』(1893年、青山堂支店)[1]

関連項目

脚注

  1. ^ 関隆治・編『國学者著述綜覧』森北書店、1943年、88p頁。