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夏の支配氏族は匈奴[[鉄弗部]]の劉氏(後の赫連氏)で、[[南匈奴]][[南匈奴#十九種族|屠各種]]に属する谷蠡王の[[劉尸利]]([[独孤部]]の首長の[[劉進伯]]の子<ref>『[[新唐書]]』宰相世系表</ref>)を祖として、[[後漢]]末の南匈奴の[[単于]]一門で[[攣鞮氏|攣鞮部]]を継いだ[[羌渠]]([[前趙]]の始祖となる)の弟である[[右賢王]]の[[去卑]]を始祖とする(末弟[[劉猛 (匈奴)|劉猛]]は[[独孤部]]、一族の[[潘六奚]]は[[破六韓部]]の始祖となる)。去卑は、[[献帝 (漢)|献帝]]の[[長安]]脱出に功績があったため、[[曹操]]の信任を受けて南匈奴諸部を監督した。 |
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2020年8月2日 (日) 21:21時点における版
夏(か、407年 - 431年)は、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃(劉勃勃)によって建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。別名「胡夏」「劉夏」。
歴史
起源
夏の支配氏族は匈奴鉄弗部の劉氏(後の赫連氏)で、南匈奴屠各種に属する谷蠡王の劉尸利(独孤部の首長の劉進伯の子[1])を祖として、後漢末の南匈奴の単于一門で攣鞮部を継いだ羌渠(前趙の始祖となる)の弟である右賢王の去卑を始祖とする(末弟劉猛は独孤部、一族の潘六奚は破六韓部の始祖となる)。去卑は、献帝の長安脱出に功績があったため、曹操の信任を受けて南匈奴諸部を監督した。
鉄弗部時代
310年、去卑の孫の劉虎が鮮卑拓跋部に敗れてオルドスへ逃れ、以降ここに割拠し、前趙・後趙・前秦から官を受けた。
劉虎の孫の劉衛辰が族長になると、再び鮮卑拓跋部に敗れ、劉衛辰は部を率いて前秦領内へ逃れた。376年、劉衛辰は前秦の拓跋部討伐に従って功績を立て、同年、オルドスに戻って拓跋部・柔然を服属させ、一大勢力を形成した。
386年、拓跋部が再興(後の北魏)すると劉衛辰はこれに勝てず、391年には北魏の遠征軍によって殺され、鉄弗部は一時滅んだ。劉衛辰の子の劉勃勃(後の赫連勃勃)はオルドス西南部の高平まで逃れたが、その後も北魏は追討軍を繰り出したため、流転の末に後秦へ身を寄せた。後秦は北魏に備えるため、勃勃をオルドスに鎮した。
夏の建国
407年、劉勃勃は旧鉄弗部や鮮卑諸部を糾合すると、後秦から自立して大単于・大夏天王と称し、龍昇と建元して大夏国を建てた。同年、夏はオルドス全域を平定し、413年には赫連氏改姓や統万城の築城など、着々と勢力を固めていった。また北魏に対しても、414年に北燕と盟を結んで牽制し、同年から翌年にかけて山西一帯を攻撃して優勢に立った。
417年、関中の後秦が東晋の劉裕によって滅ぼされると、418年に夏軍は南下して東晋を破り、長安など関中諸城を占領した。同年、赫連勃勃は帝位に即き、翌419年に真興と改元し、統万城を都に定めて帰還した。夏の領域は、関中・オルドス・山西南部に及び、吐谷渾・北涼を服属させ、華北西部に大勢力を築いた。
衰退
424年、長安で反乱が起こって内乱状態となり、425年に赫連勃勃が死去すると、夏の勢力は急速に衰退した。426年、夏は2路より5万の兵を進めて西秦を攻め、都の枹罕を陥して西平まで達したが、北魏はこの機に乗じて夏へ第1次遠征軍を送り、関中諸城を占領した。427年、北魏は夏へ第二次遠征軍を送り、都の統万城を占領した。二代皇帝赫連昌は統万城から脱出し、上邽を都に定めて抗戦したが、各地で北魏に敗れて政権は瓦解した。428年、夏帝赫連昌は北魏に捕らえられた。
428年、赫連昌の弟の赫連定は逃亡先の平涼で大夏皇帝に即位し、同年、各地の敗残兵を糾合すると、北魏から関中全域及び統万城を除くオルドス諸城を奪回した。430年、南朝宋と同盟が成立し、赫連定は統万城奪回に向かったが、北魏は夏へ第三次遠征軍を送り、ついに夏都平涼も陥落した。夏は瓦解し、赫連定は敗残兵を率いて上邽へ逃れた。
滅亡
431年1月、夏主赫連定は再起を図るため西へ進み、南安の西秦を攻めてこれを滅ぼし、ついで全軍を率いて北涼遠征を行った。6月、夏軍が黄河を渡る途中、服属していた吐谷渾軍に襲われて壊滅し、赫連定も捕らえられて大夏政権は滅亡した。なお、第3代皇帝赫連定は432年、第2代皇帝赫連昌は434年に北魏によって殺された。
夏の文物
現存する夏の文物としては、統万城遺址・代来城遺址・太夏真興銭(419年-)・田焽墓誌(420年)・大夏石馬(424年)・施文造像(429年)・紀年文書として敦煌・トルファン文書数点がある。また、現存はしないものの、大夏龍雀刀(413年)や統万城南碑頌(419年)などが知られている。
夏の名臣
- 叱干阿利
- 鮮卑叱干部族長の一族。劉衛辰が北魏に滅ぼされた時、族長であった太悉伏を説得して遺児の劉勃勃(後の赫連勃勃)を匿った。この事が発覚すると叱干部は北魏によって滅ぼされたが、阿利は余衆を率いて勃勃に投じ、407年に夏が建国すると御史大夫・梁公に拝された。413年、将作大匠を拝され統万城を築いた。統万城は中国の城郭建築史上初めて馬面を施したもので、城壁もセメントで固められ、北宋時代(11世紀)でも金属で叩くと火花が散るほどの強度を保っていたという。
- 烏洛孤
- 夏の御史中丞で外交を担当。414年に遼西の北燕、415年に河西の北涼へ赴き、これらと盟を結んで夏の覇権を形成した。
- 王買徳
- 赫連勃勃の軍師。もともと後秦の参軍であったが、赫連勃勃に投じると重用され、多くの戦いで作戦を立案した。特に418年の関中平定戦には王買徳に依拠するところが大きかったという。同年、功によって都官尚書・冠軍将軍・河陽侯に拝された。
- 赫連韋伐
- 赫連勃勃の弟で、夏の車騎大将軍・北平公。西征軍を担当。426年、北涼の要請で征南大将軍呼盧古と共に西秦を攻め、苑川(西秦の旧都)・南安(西秦の秦州治所)・枹罕(西秦の都)・西平(西秦の沙州)を陥した。431年1月、韋伐は夏の敗残兵を糾合して再び西秦を攻め、都の南安を陥し西秦を滅ぼした。
- 赫連那勿黎
- 赫連勃勃の子で、夏の七兵尚書。431年に夏が滅びると、姓を赫連氏から口豆連氏(後の雲氏)と改めて北魏に降り、北部莫弗となって夏の遺民を率いた。
夏の君主
鉄弗部時代
- 去卑(族長位2世紀末頃 - 3世紀前半頃)
- 誥升爰(族長位251年 - 309年)大夏建国後に元皇帝
- 劉虎(族長位309年 - 351年)大夏建国後に景皇帝
- 劉務桓(族長位351年 - 356年)大夏建国後に宣皇帝
- 劉閼頭(族長位356年 - 358年)
- 劉悉勿祈(族長位358年 - 359年)
- 劉衛辰(族長位359年 - 391年)大夏建国後に太祖桓皇帝
夏
元号
脚注
関連項目
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