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[[荘存与]]の外孫にあたる。荘存与の甥の[[荘述祖]]に師事した。39歳で[[進士]]となり、長期にわたって[[礼部]]に在職し、事を決定するときには[[経書]]を引用したことから、当時の人から[[董仲舒]]の風があると評された。
[[荘存与]]の外孫にあたる。荘存与の甥の[[荘述祖]]に師事した。39歳で[[進士]]となり、長期にわたって[[礼部]]に在職し、事を決定するときには[[経書]]を引用したことから、当時の人から[[董仲舒]]の風があると評された。


劉逢禄の学問の中心は[[春秋]]公羊学で、[[常州学派]]の中心となった。著名な弟子には[[キョウ自珍|龔自珍]]と[[魏源]]がおり、いずれも清末の思想と情勢に大きな影響を与えた。
劉逢禄の学問の中心は[[春秋]]公羊学で、[[常州学派]]の中心となった。著名な弟子には[[龔自珍]]と[[魏源]]がおり、いずれも清末の思想と情勢に大きな影響を与えた。


== 著作 ==
== 著作 ==

2020年8月2日 (日) 21:18時点における版

劉 逢禄(りゅう ほうろく、1776年 - 1829年)は、中国代の儒学者申受、または申甫。号は思誤居士。常州府武進県の出身。

略歴

荘存与の外孫にあたる。荘存与の甥の荘述祖に師事した。39歳で進士となり、長期にわたって礼部に在職し、事を決定するときには経書を引用したことから、当時の人から董仲舒の風があると評された。

劉逢禄の学問の中心は春秋公羊学で、常州学派の中心となった。著名な弟子には龔自珍魏源がおり、いずれも清末の思想と情勢に大きな影響を与えた。

著作

  • 『劉礼部集』
  • 『春秋公羊経何氏釈例』
  • 『発墨守評』
  • 『箴膏肓評』
  • 『申穀梁廃疾』