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'''段 玉裁'''(だん ぎょくさい、[[雍正]]13年([[1735年]]) - [[嘉慶 (中国)|嘉慶]]20年9月8日([[1815年]][[10月10日]]))は、[[中国]][[清]]代中期の[[考証学]]者。[[字]]は'''若膺'''(じゃくよう)。[[号 (称号)|号]]は'''懋堂'''・'''茂堂'''(ぼうどう)。鎮江府[[金壇市|金壇県]]の出身。『[[説文解字]]』の解釈に金字塔を打ち立てた人物として広く知られる。詩人・公羊学者として有名な[[龔自珍]]は外孫に当たる。 |
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2020年8月2日 (日) 21:17時点における版
段 玉裁(だん ぎょくさい、雍正13年(1735年) - 嘉慶20年9月8日(1815年10月10日))は、中国清代中期の考証学者。字は若膺(じゃくよう)。号は懋堂・茂堂(ぼうどう)。鎮江府金壇県の出身。『説文解字』の解釈に金字塔を打ち立てた人物として広く知られる。詩人・公羊学者として有名な龔自珍は外孫に当たる。
生い立ち
26歳のとき挙人(それぞれの郷里における科挙受験資格試験合格者)となったが、会試(都における二次試験)に及第することはついになかった。玉屏県知県、巫山県知県を歴任。30代の終わりごろ、四川省西北部で金川というチベット系部族の反乱が勃発、清朝廷はすぐさま鎮圧に乗り出した。折しもこのとき、段玉裁は争乱地帯における軍事補給基地の責任者であり、鎮圧部隊の督励に当たったが、その一方で暮夜ひそかに『六書音均表』の草稿に手を入れていたという話である。のち、46歳のとき職を辞して故郷に帰り、以後は自らの専門研究に従事した。
音韻研究
29歳のとき12歳年上の考証家戴震の知遇を得て、その門下に入った。戴震は地理・数学・音韻に長じていたが、段玉裁は特に音韻学においてその薫陶を受け、自らは『詩経』に見える押韻に着目した。『詩経』の押韻は、後世、中国語の変化とともに不分明になり、後世の音韻と不整合を生ずるものとなっていたが、古く宋代の朱熹らはこれを叶韻によって処理していた。叶韻とは、『詩経』『楚辞』などの古い韻文文学で、韻字が後世の音韻に合わないとき、発音それ自体を改変して後世の韻に合わせてしまうことをいう。しかし、このような牽強な解釈に後の学者たちは疑念を抱き、古い時代には後の世とは異なる韻が存在していたはずであると、明末の陳第が『毛詩古音考』を、また清初の顧炎武が「顧氏十部表」(音学五書の五『古音表』のこと)を発表して、古代音韻の世界にも漸く新たな地平が開拓されていった。段玉裁はこれら先学の遺業を受け継ぎ、彼独自の方法論で『詩経』当時の音価を推定して17の韻目に整理していった。そしてその成果が41歳のとき、『六書音均表』として完成されたのである。
説文解字注
『六書音韻表』を公刊後は、段玉裁の研究は『尚書』『周礼』『詩経』などの経文解釈に注がれた。
最大の業績が後漢の許慎が著した『説文解字』に対する注解である。『説文解字注』は『六書音均表』と相互に関連付けられるように執筆がなされた。
日本語文献
- 『訓読 説文解字注』 尾崎雄二郎編訳。訳者による「読み下し」による訳文、補注での「注解」。
- 東海大学古典叢書・東海大学出版会、1981年-1993年。5巻目まで刊行(全8巻予定)。
- 高橋由利子 『説文解字の基礎的研究 段玉裁の説文学』(六甲出版、1996年)、
- 近藤光男 『清朝考証學の研究』(研文出版、1987年)。「段玉裁の学問」を収録
著書
- 『六書音均表』
- 『古文尚書撰異』
- 『詩経小学』
- 『毛詩故訓伝定本小箋』
- 『周礼漢読考』
- 『説文解字注』