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'''孫 葵心'''(そん きしん、''Sun Kuixin''、? - [[1861年]])は、[[清]]末の[[捻軍]]の乱の指導者の一人。 |
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[[安徽省]][[亳州市|亳州]][[渦陽県|孫集]]出身。かつて亳州で[[龔得樹]]に命を救われたことがあり、龔得樹が蜂起すると孫葵心も呼応して、龔得樹率いる白旗に属して活動した。[[1857年]]、盟主の[[張楽行]]が淮南に進軍するのに従い、[[懐遠県|懐遠]]を占領した。その後根拠地に帰り、黒旗の[[劉学淵]]・藍旗の[[劉天福]]とともに[[河南省]]・[[山東省]]・[[江蘇省]]の省境付近で活動した。[[1859年]]、[[舞陽県|舞陽]]で清軍を破り、南陽鎮総兵[[丘聯恩]]らを戦死させた。[[1860年]]、河南省から[[六安市|六安]]に入り、龔得樹と[[太平天国]]の[[陳玉成]]と会合を持った。12月に陳玉成に従って[[安慶市|安慶]]の救援に向かったが、[[桐城市|桐城]]の西南で清軍に阻まれ、[[廬江県|廬江]]に退いた。[[1861年]]、淮北に戻ろうと[[合肥市|合肥]]を通過したところ、[[団練]]の襲撃を受け、戦死した。 |
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==参考文献== |
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2020年8月2日 (日) 21:12時点における最新版
孫 葵心(そん きしん、Sun Kuixin、? - 1861年)は、清末の捻軍の乱の指導者の一人。
安徽省亳州孫集出身。かつて亳州で龔得樹に命を救われたことがあり、龔得樹が蜂起すると孫葵心も呼応して、龔得樹率いる白旗に属して活動した。1857年、盟主の張楽行が淮南に進軍するのに従い、懐遠を占領した。その後根拠地に帰り、黒旗の劉学淵・藍旗の劉天福とともに河南省・山東省・江蘇省の省境付近で活動した。1859年、舞陽で清軍を破り、南陽鎮総兵丘聯恩らを戦死させた。1860年、河南省から六安に入り、龔得樹と太平天国の陳玉成と会合を持った。12月に陳玉成に従って安慶の救援に向かったが、桐城の西南で清軍に阻まれ、廬江に退いた。1861年、淮北に戻ろうと合肥を通過したところ、団練の襲撃を受け、戦死した。
参考文献
[編集]- 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社