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「蘇天福」の版間の差分

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'''蘇 天福'''(そ てんふく、''Su Tianfu''、? - [[1863年]])。'''蘇添福'''とも書く。[[捻軍]]の乱の指導者の一人。[[回族]]。
'''蘇 天福'''(そ てんふく、''Su Tianfu''、? - [[1863年]])。'''蘇添福'''とも書く。[[捻軍]]の乱の指導者の一人。[[回族]]。


[[河南省]][[永城市|永城]]出身。塩の密売を行っていたが、捻党の[[張楽行]]・[[キョウ得樹|龔得樹]]と知り合い義兄弟となった。[[1854年]]、[[太平天国]]軍の[[北伐 (太平天国)|北伐]]に呼応して、捻軍を率いて永城を占領した。しかし[[団練]]との抗争に敗れ、[[亳州市|亳州]]に撤退した。
[[河南省]][[永城市|永城]]出身。塩の密売を行っていたが、捻党の[[張楽行]]・[[龔得樹]]と知り合い義兄弟となった。[[1854年]]、[[太平天国]]軍の[[北伐 (太平天国)|北伐]]に呼応して、捻軍を率いて永城を占領した。しかし[[団練]]との抗争に敗れ、[[亳州市|亳州]]に撤退した。


[[1855年]]、捻軍は亳州の[[渦陽県|雉河集]]で会議を開き、五旗軍制を定め、張楽行が盟主兼黄旗軍首領となった。蘇天福は黒旗軍首領となり、順天王と称した。張楽行と蘇天福は雉河集を出発して、河南省・[[安徽省]]の省境で[[清]]の[[提督 (清朝)|提督]]の[[武隆額]]を破った。[[1956年]]には河南省に入り、[[商丘市|帰徳]]で河南巡撫[[英桂]]を包囲した。
[[1855年]]、捻軍は亳州の[[渦陽県|雉河集]]で会議を開き、五旗軍制を定め、張楽行が盟主兼黄旗軍首領となった。蘇天福は黒旗軍首領となり、順天王と称した。張楽行と蘇天福は雉河集を出発して、河南省・[[安徽省]]の省境で[[清]]の[[提督 (清朝)|提督]]の[[武隆額]]を破った。[[1956年]]には河南省に入り、[[商丘市|帰徳]]で河南巡撫[[英桂]]を包囲した。

2020年8月2日 (日) 21:12時点における版

蘇 天福(そ てんふく、Su Tianfu、? - 1863年)。蘇添福とも書く。捻軍の乱の指導者の一人。回族

河南省永城出身。塩の密売を行っていたが、捻党の張楽行龔得樹と知り合い義兄弟となった。1854年太平天国軍の北伐に呼応して、捻軍を率いて永城を占領した。しかし団練との抗争に敗れ、亳州に撤退した。

1855年、捻軍は亳州の雉河集で会議を開き、五旗軍制を定め、張楽行が盟主兼黄旗軍首領となった。蘇天福は黒旗軍首領となり、順天王と称した。張楽行と蘇天福は雉河集を出発して、河南省・安徽省の省境で提督武隆額を破った。1956年には河南省に入り、帰徳で河南巡撫英桂を包囲した。

1857年、太平天国軍が北上して六安を占領すると、捻軍の張楽行・龔得樹・蘇天福と太平天国軍の李秀成陳玉成が会談を行い、連合して清軍と戦うことになった。このとき蘇天福は太平天国から立天侯に封ぜられた。その後、1858年には三河の戦いに参加し、1859年には定遠を攻略して安徽巡撫の翁同書を敗走させた。その後定遠の守備についていたが、1961年に張楽行とともに根拠地の淮北に帰った。

1862年、清がホルチン郡王センゲリンチン(僧格林沁)に河南省・山東省・安徽省の軍務を一任して、数万の兵を派遣したことで形勢は厳しくなった。1863年3月、雉河集で張楽行・蘇天福の捻軍20万とセンゲリンチン軍が死闘を繰り広げたが、捻軍の敗北に終わり、張楽行と蘇天福はともに捕らえられ処刑された。

参考文献

  • 白寿彝主編『回族人物志』寧夏人民出版社