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[[楊露禅]]とは幼馴染で始めは共に洪拳を学ぶ。その後、広府鎮の太和堂(陳家溝の一族が経営する薬店)にて楊露禅と共に「綿拳([[陳式太極拳]])」を学び研鑽する。楊露禅が[[陳家溝]]から帰ると、彼を通じて[[陳長興]]の太極拳(大架式)を学ぶ。その後武禹襄自身も、陳家溝に出向いて陳長興に指導を懇願するも、陳長興は老齢かつ多病のため断念。 |
[[楊露禅]]とは幼馴染で始めは共に洪拳を学ぶ。その後、広府鎮の太和堂(陳家溝の一族が経営する薬店)にて楊露禅と共に「綿拳([[陳式太極拳]])」を学び研鑽する。楊露禅が[[陳家溝]]から帰ると、彼を通じて[[陳長興]]の太極拳(大架式)を学ぶ。その後武禹襄自身も、陳家溝に出向いて陳長興に指導を懇願するも、陳長興は老齢かつ多病のため断念。 |
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その後、趙堡鎮の[[陳清萍]]に学ぶ。兄の武秋瀛が再発見した、[[王宗岳]]の『太極拳譜』などの理論的研究を続け、独自の工夫を加え、新たな武氏太極拳を創造し、姉妹の子の[[李経綸]](りけいりん)と[[李承綸]]に伝えた。再発見された王宗岳の『太極拳譜』の原本は焼失したと伝えられ、李経綸が王宗岳、武禹襄、李経綸の太極拳の理論を手写し、自身と李承綸と[[ |
その後、趙堡鎮の[[陳清萍]]に学ぶ。兄の武秋瀛が再発見した、[[王宗岳]]の『太極拳譜』などの理論的研究を続け、独自の工夫を加え、新たな武氏太極拳を創造し、姉妹の子の[[李経綸]](りけいりん)と[[李承綸]]に伝えた。再発見された王宗岳の『太極拳譜』の原本は焼失したと伝えられ、李経綸が王宗岳、武禹襄、李経綸の太極拳の理論を手写し、自身と李承綸と[[郝為真]]に配った『老三本』が、現在知られている王宗岳の『太極拳譜』の根本とされる。 |
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武禹襄の著作としては、『[[十三勢行功要解]]』、『[[太極拳解]]』、『太極拳論要解』、『[[十三勢説略]]』などがある。 |
武禹襄の著作としては、『[[十三勢行功要解]]』、『[[太極拳解]]』、『太極拳論要解』、『[[十三勢説略]]』などがある。 |
2020年8月2日 (日) 21:01時点における最新版
武 禹襄(ぶ うじょう、Wu Yu Xiang、1812年 - 1880年)は、中国武術の武式太極拳の創始者。
姓は武、諱は河清。字は禹襄。中国河北省永年県広府鎮東街に生まれ、清の秀才とされた。武家は、広府鎮の四大名家のひとつで、長兄澄清(字は秋瀛)、次兄汝清(字は酌堂)とそろって、三兄弟とも武術を好んだ。
楊露禅とは幼馴染で始めは共に洪拳を学ぶ。その後、広府鎮の太和堂(陳家溝の一族が経営する薬店)にて楊露禅と共に「綿拳(陳式太極拳)」を学び研鑽する。楊露禅が陳家溝から帰ると、彼を通じて陳長興の太極拳(大架式)を学ぶ。その後武禹襄自身も、陳家溝に出向いて陳長興に指導を懇願するも、陳長興は老齢かつ多病のため断念。
その後、趙堡鎮の陳清萍に学ぶ。兄の武秋瀛が再発見した、王宗岳の『太極拳譜』などの理論的研究を続け、独自の工夫を加え、新たな武氏太極拳を創造し、姉妹の子の李経綸(りけいりん)と李承綸に伝えた。再発見された王宗岳の『太極拳譜』の原本は焼失したと伝えられ、李経綸が王宗岳、武禹襄、李経綸の太極拳の理論を手写し、自身と李承綸と郝為真に配った『老三本』が、現在知られている王宗岳の『太極拳譜』の根本とされる。