コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「王双」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
24行目: 24行目:
[[黄初]]3年([[222年]])、[[曹丕]](文帝)の命で[[曹仁]]に従って[[呉 (三国)|呉]]の濡須への攻撃に加わった。曹仁が濡須督である[[朱桓]]に大敗すると、生け捕られて[[武昌]]に送られた。
[[黄初]]3年([[222年]])、[[曹丕]](文帝)の命で[[曹仁]]に従って[[呉 (三国)|呉]]の濡須への攻撃に加わった。曹仁が濡須督である[[朱桓]]に大敗すると、生け捕られて[[武昌]]に送られた。


[[太和 (魏)|太和]]2年(228年)冬、陳倉城を包囲していた[[蜀漢]]軍が兵糧の枯渇により撤退した時<ref>曹真伝では、これに先立ち[[カク昭|郝昭]]と共に、王生なる部将を陳倉に派遣し守備に当たらせている。</ref>、[[曹真]]配下として騎兵を率いこれを追撃したが、[[諸葛亮]]軍の反撃に遭って戦死した。
[[太和 (魏)|太和]]2年(228年)冬、陳倉城を包囲していた[[蜀漢]]軍が兵糧の枯渇により撤退した時<ref>曹真伝では、これに先立ち[[郝昭]]と共に、王生なる部将を陳倉に派遣し守備に当たらせている。</ref>、[[曹真]]配下として騎兵を率いこれを追撃したが、[[諸葛亮]]軍の反撃に遭って戦死した。


『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』には以上の記述しかないため、曹仁の下で呉に侵攻し捕らわれた後に釈放され、曹真の下で蜀と戦い戦死したのか、それとも同姓同名の別人物だったのか不明である。
『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』には以上の記述しかないため、曹仁の下で呉に侵攻し捕らわれた後に釈放され、曹真の下で蜀と戦い戦死したのか、それとも同姓同名の別人物だったのか不明である。

2020年8月2日 (日) 20:58時点における版

王双
清代の書物に描かれた王双
代の書物に描かれた王双

将軍
出生 不詳
死去 228年
拼音 Wáng Shuāng
不詳
(『三国志演義』では「子全」)
別名 王雙
主君 曹丕曹叡
テンプレートを表示

王 双(おう そう、生年不詳 - 228年)は、中国三国時代の軍人・将軍。王雙とも呼ばれる。

略歴

黄初3年(222年)、曹丕(文帝)の命で曹仁に従っての濡須への攻撃に加わった。曹仁が濡須督である朱桓に大敗すると、生け捕られて武昌に送られた。

太和2年(228年)冬、陳倉城を包囲していた蜀漢軍が兵糧の枯渇により撤退した時[1]曹真配下として騎兵を率いこれを追撃したが、諸葛亮軍の反撃に遭って戦死した。

三国志』には以上の記述しかないため、曹仁の下で呉に侵攻し捕らわれた後に釈放され、曹真の下で蜀と戦い戦死したのか、それとも同姓同名の別人物だったのか不明である。

物語中での王双

小説『三国志演義』では子全(『横山三国志』では子金)、隴西郡狄道県(現・甘粛省天水市)の人という設定になっている。若くして曹真に従い、虎威将軍に任じられて諸葛亮率いる蜀軍と戦う。60斤(後漢〜三国時代の尺度で約13kg)の大薙刀を振り回し、鉄の強弓を軽々とひく腕力に加えて流星鎚という鉄球を投げては百発百中と自慢する腕の持ち主だった。蜀の謝雄と龔起らを討ち取り、張嶷に重傷を負わせるなどの活躍をするが、諸葛亮の策を受けた魏延によって斬り殺されている。

注釈

  1. ^ 曹真伝では、これに先立ち郝昭と共に、王生なる部将を陳倉に派遣し守備に当たらせている。