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「海原県」の版間の差分

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[[707年]]([[神龍 (唐)|神龍]]3年)、唐朝により[[蕭関県]]が設置されると、県域には原州蕭関県と[[会寧州 (甘粛省)|会州]][[会寧県]]が設置されている。[[五代十国|五代]]には[[吐蕃]]の支配下に置かれ、[[1002年]]([[咸平]]5年)、タングート勢力は現在の県域にあたる天都山を占拠、1038年([[天授礼法延祚]]元年)、[[西夏]]の版図とされ、県域西部に南牟会城を設置している。[[1099年]]([[元符]]2年)、[[宋 (王朝)|宋朝]]がこの地を奪回すると[[西安州]]を設置、[[秦鳳路]]の管轄としたが、[[1126年]]([[元徳 (西夏)|元徳]]8年)、西夏が再び占拠し[[南威州]]または安州と改称された。
[[707年]]([[神龍 (唐)|神龍]]3年)、唐朝により[[蕭関県]]が設置されると、県域には原州蕭関県と[[会寧州 (甘粛省)|会州]][[会寧県]]が設置されている。[[五代十国|五代]]には[[吐蕃]]の支配下に置かれ、[[1002年]]([[咸平]]5年)、タングート勢力は現在の県域にあたる天都山を占拠、1038年([[天授礼法延祚]]元年)、[[西夏]]の版図とされ、県域西部に南牟会城を設置している。[[1099年]]([[元符]]2年)、[[宋 (王朝)|宋朝]]がこの地を奪回すると[[西安州]]を設置、[[秦鳳路]]の管轄としたが、[[1126年]]([[元徳 (西夏)|元徳]]8年)、西夏が再び占拠し[[南威州]]または安州と改称された。


[[元 (王朝)|元代]]になるとこの地の人口が増加し、'''海喇都原'''と称されるようになり、やがて'''海喇都堡'''が設置され[[開城路]]の管轄となった。[[明|明代]]は[[朱テイ (明)|楚王]]及び[[沐英|黔寧王]]の牧地とされ、海喇都堡は海城と称されるようになり[[固原州]]の管轄とされて。[[成化]]年間には西安・鎮戎・平虜守御千戸所が設置されている。[[清|清初]]は[[平涼府]]に属したが、[[1646年]]([[順治]]3年)、平涼府塩茶同知に移管されている。
[[元 (王朝)|元代]]になるとこの地の人口が増加し、'''海喇都原'''と称されるようになり、やがて'''海喇都堡'''が設置され[[開城路]]の管轄となった。[[明|明代]]は[[朱|楚王]]及び[[沐英|黔寧王]]の牧地とされ、海喇都堡は海城と称されるようになり[[固原州]]の管轄とされて。[[成化]]年間には西安・鎮戎・平虜守御千戸所が設置されている。[[清|清初]]は[[平涼府]]に属したが、[[1646年]]([[順治]]3年)、平涼府塩茶同知に移管されている。


[[1874年]]([[同治]]13年)、海城県が設置され[[中華民国]]まで沿襲されたが、[[1914年]]([[中華民国暦|民国]]3年)、[[遼寧省 (中華民国)|遼寧省]]に同名の県が存在したことから'''海原県'''と改称、[[甘粛省 (中華民国)|甘粛省]][[平涼専区]]の所感とされた。
[[1874年]]([[同治]]13年)、海城県が設置され[[中華民国]]まで沿襲されたが、[[1914年]]([[中華民国暦|民国]]3年)、[[遼寧省 (中華民国)|遼寧省]]に同名の県が存在したことから'''海原県'''と改称、[[甘粛省 (中華民国)|甘粛省]][[平涼専区]]の所感とされた。

2020年8月2日 (日) 02:11時点における版

中華人民共和国 寧夏自治区 海原県
簡体字 海原
繁体字 海原
拼音 Hǎiyuán
カタカナ転写 ハイユエン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
自治区 寧夏
地級市 中衛市
行政級別
面積
総面積 6373 km²
人口
総人口(2011) 46.37 万人
経済
電話番号 0955
郵便番号 751800
行政区画代碼 640522
公式ウェブサイト http://www.hy.gov.cn/

海原県(かいげん-けん)は、中華人民共和国寧夏回族自治区中衛市に位置する

歴史

秦代北地郡漢代安定郡三国時代原州に属した。隋朝により平涼郡が設置されたが唐朝により原州に戻されている。

707年神龍3年)、唐朝により蕭関県が設置されると、県域には原州蕭関県と会州会寧県が設置されている。五代には吐蕃の支配下に置かれ、1002年咸平5年)、タングート勢力は現在の県域にあたる天都山を占拠、1038年(天授礼法延祚元年)、西夏の版図とされ、県域西部に南牟会城を設置している。1099年元符2年)、宋朝がこの地を奪回すると西安州を設置、秦鳳路の管轄としたが、1126年元徳8年)、西夏が再び占拠し南威州または安州と改称された。

元代になるとこの地の人口が増加し、海喇都原と称されるようになり、やがて海喇都堡が設置され開城路の管轄となった。明代楚王及び黔寧王の牧地とされ、海喇都堡は海城と称されるようになり固原州の管轄とされて。成化年間には西安・鎮戎・平虜守御千戸所が設置されている。清初平涼府に属したが、1646年順治3年)、平涼府塩茶同知に移管されている。

1874年同治13年)、海城県が設置され中華民国まで沿襲されたが、1914年民国3年)、遼寧省に同名の県が存在したことから海原県と改称、甘粛省平涼専区の所感とされた。

1949年8月、県域は中国共産党の実効支配下に於かれることとなった。1953年12月、固原回族自治州の所管とされ、更に1958年10月に寧夏回族自治区固原専区に移管された。1970年に固原専区は固原地区と改称、2001年の固原地区の廃止と、地級市としての固原市の成立により海原県も移管されている。2003年12月31日、海原県は中衛市に移管されることが決定し、2004年2月10日に新設された中衛市に編入された。

行政区画

  • 鎮:海城鎮、李旺鎮、西安鎮、三河鎮、七営鎮
  • 郷:史店郷、樹台郷、関橋郷、高崖郷、鄭旗郷、賈塘郷、曹窪郷、九彩郷、李俊郷、紅羊郷、関荘郷、甘城郷