「衛栄光」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
Chicchiki cheese (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 「楨」→「テイ」への改名に伴うリンク修正依頼2 (丁宝楨) - log タグ: 手動差し戻し |
||
3行目: | 3行目: | ||
[[河南省]][[新郷県|新郷]]出身。[[1852年]]に[[進士]]となり、[[庶吉士]]に選ばれ、編修となった。[[1859年]]、湖南巡撫[[胡林翼]]の求めに応じて軍務につき、荊州将軍[[ドロンガ]](多隆阿)に従って[[太平天国]]軍と戦い、[[黄岡市|黄州]]各郡を攻略し、[[安徽省]]に入って[[太湖県|太湖]]・[[潜山県|潜山]]を陥落させた。その後、胡林翼の掃討戦に従ったが、少数の兵で多数の敵を撃破するのを得意とした。 |
[[河南省]][[新郷県|新郷]]出身。[[1852年]]に[[進士]]となり、[[庶吉士]]に選ばれ、編修となった。[[1859年]]、湖南巡撫[[胡林翼]]の求めに応じて軍務につき、荊州将軍[[ドロンガ]](多隆阿)に従って[[太平天国]]軍と戦い、[[黄岡市|黄州]]各郡を攻略し、[[安徽省]]に入って[[太湖県|太湖]]・[[潜山県|潜山]]を陥落させた。その後、胡林翼の掃討戦に従ったが、少数の兵で多数の敵を撃破するのを得意とした。 |
||
[[1861年]]、胡林翼が死去すると、[[北京市|北京]]に戻ることにしたが、その途中、新郷県に[[山東省]]から[[捻軍]]が侵入したため、[[団練]]を組織して防衛にあたった。[[1862年]]に北京に到着し、[[翰林院]]侍講に任命され、翌年には侍講学士に昇進した。その後、済東泰武臨道、山東塩運使、按察使を歴任した。[[1865年]]、捻軍の[[頼文光]]・[[張宗禹]]が山東省に入ると、衛栄光は山東巡撫の[[閻敬銘]]から[[黄河]]の防衛を委ねられ、捻軍を大敗させた。[[1867年]]、捻軍の勢いが再び増したため山東巡撫の[[ |
[[1861年]]、胡林翼が死去すると、[[北京市|北京]]に戻ることにしたが、その途中、新郷県に[[山東省]]から[[捻軍]]が侵入したため、[[団練]]を組織して防衛にあたった。[[1862年]]に北京に到着し、[[翰林院]]侍講に任命され、翌年には侍講学士に昇進した。その後、済東泰武臨道、山東塩運使、按察使を歴任した。[[1865年]]、捻軍の[[頼文光]]・[[張宗禹]]が山東省に入ると、衛栄光は山東巡撫の[[閻敬銘]]から[[黄河]]の防衛を委ねられ、捻軍を大敗させた。[[1867年]]、捻軍の勢いが再び増したため山東巡撫の[[丁宝楨]]は省境を越えて出撃し、衛栄光が団練を率いて省城の防衛にあたったが、敵を寄せ付けなかった。 |
||
[[1875年]]、安徽按察使となり、さらに浙江布政使に遷った。その後、山西巡撫となり、[[1882年]]に江蘇巡撫に異動した。[[1886年]]、浙江巡撫となり、再び山西巡撫となった。その後、病で引退した。 |
[[1875年]]、安徽按察使となり、さらに浙江布政使に遷った。その後、山西巡撫となり、[[1882年]]に江蘇巡撫に異動した。[[1886年]]、浙江巡撫となり、再び山西巡撫となった。その後、病で引退した。 |
2020年8月1日 (土) 22:54時点における版
衛 栄光(えい えいこう、Wei Rongguang、? - 1892年)、字は靜瀾。清末の官僚。
河南省新郷出身。1852年に進士となり、庶吉士に選ばれ、編修となった。1859年、湖南巡撫胡林翼の求めに応じて軍務につき、荊州将軍ドロンガ(多隆阿)に従って太平天国軍と戦い、黄州各郡を攻略し、安徽省に入って太湖・潜山を陥落させた。その後、胡林翼の掃討戦に従ったが、少数の兵で多数の敵を撃破するのを得意とした。
1861年、胡林翼が死去すると、北京に戻ることにしたが、その途中、新郷県に山東省から捻軍が侵入したため、団練を組織して防衛にあたった。1862年に北京に到着し、翰林院侍講に任命され、翌年には侍講学士に昇進した。その後、済東泰武臨道、山東塩運使、按察使を歴任した。1865年、捻軍の頼文光・張宗禹が山東省に入ると、衛栄光は山東巡撫の閻敬銘から黄河の防衛を委ねられ、捻軍を大敗させた。1867年、捻軍の勢いが再び増したため山東巡撫の丁宝楨は省境を越えて出撃し、衛栄光が団練を率いて省城の防衛にあたったが、敵を寄せ付けなかった。
1875年、安徽按察使となり、さらに浙江布政使に遷った。その後、山西巡撫となり、1882年に江蘇巡撫に異動した。1886年、浙江巡撫となり、再び山西巡撫となった。その後、病で引退した。
出典
- 『清史稿』巻454・列伝234
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|