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彼女は皇子女を生まず、結局[[西太后|懿貴妃]]所生の載淳が儲君となり、咸豊10年([[1861年]])8月に咸豊帝が[[熱河]]にて病死すると[[同治帝]]として即位した。同年11月には祺祥政変([[辛酉政変]])が起き、西太后の称を得た懿貴妃が[[愛新覚羅奕訢|恭親王]]と手を結んで、先帝の遺した8人の顧命王大臣を追い落として政権を握った。そこで新たに幼帝を輔佐するべく、嫡母東太后と生母[[西太后]]が[[垂簾聴政]]を敷き、叔父恭親王が[[議政王]]となった。8年後、[[同治]]12年([[1873年]])、同治帝の大婚を機に帰政する。 |
彼女は皇子女を生まず、結局[[西太后|懿貴妃]]所生の載淳が儲君となり、咸豊10年([[1861年]])8月に咸豊帝が[[熱河]]にて病死すると[[同治帝]]として即位した。同年11月には祺祥政変([[辛酉政変]])が起き、西太后の称を得た懿貴妃が[[愛新覚羅奕訢|恭親王]]と手を結んで、先帝の遺した8人の顧命王大臣を追い落として政権を握った。そこで新たに幼帝を輔佐するべく、嫡母東太后と生母[[西太后]]が[[垂簾聴政]]を敷き、叔父恭親王が[[議政王]]となった。8年後、[[同治]]12年([[1873年]])、同治帝の大婚を機に帰政する。 |
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東太后は温和誠実な人柄で、いつも夫・子を立てて、実際に政治に容喙することは少なかった。東太后に養育された同治帝も、生母よりも嫡母との間がはるかに近かったという。しかし、そんな東太后も時には果断な一面を見せることがあり、その一例が、[[宦官]]の[[安得海]]を処刑した件である。安得海は、おしゃべりの相手として西太后に気に入られていたのを良いことに傍若無人な振る舞いをしていたため、心ある人々に憎まれていた。同治8年([[1869年]])に、安得海は西太后の命令で、やがて来たる同治帝の婚儀の衣装を買いそろえるために、[[山東省|山東]]地方へ下った。清朝には、「宦官は勝手に皇城を出てはならぬ」という法度があったが、思い上がった安得海は正式な手続きを経ていなかった。彼を憎む人々は、この機会を見逃さなかった。時の山東[[巡撫]][[ |
東太后は温和誠実な人柄で、いつも夫・子を立てて、実際に政治に容喙することは少なかった。東太后に養育された同治帝も、生母よりも嫡母との間がはるかに近かったという。しかし、そんな東太后も時には果断な一面を見せることがあり、その一例が、[[宦官]]の[[安得海]]を処刑した件である。安得海は、おしゃべりの相手として西太后に気に入られていたのを良いことに傍若無人な振る舞いをしていたため、心ある人々に憎まれていた。同治8年([[1869年]])に、安得海は西太后の命令で、やがて来たる同治帝の婚儀の衣装を買いそろえるために、[[山東省|山東]]地方へ下った。清朝には、「宦官は勝手に皇城を出てはならぬ」という法度があったが、思い上がった安得海は正式な手続きを経ていなかった。彼を憎む人々は、この機会を見逃さなかった。時の山東[[巡撫]][[丁宝楨]]の奏聞を納れた東太后は、ただちに丁宝楨に命じ、その地で安得海を処刑させた。このことは、東太后が決して西太后の言いなりではなかったことを示すエピソードとして知られる。 |
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同治帝の早世後、西太后は自分の妹が生んだ[[愛新覚羅奕譞|醇親王]]の子を迎えて[[光緒帝]]とし、東太后も西太后と並んで再び執政の座に就いた。が、政治の実権は権謀術数に長ける西太后が握ったままだった。東太后は光緒7年(1881年)3月9日に45歳で死去。明らかな病状は無く、[[脳卒中]]という急死だったため、早くから西太后による毒殺と囁かれた。同年9月、[[河北省]]遵化県内にある[[清東陵]]普祥峪の定東陵に埋葬された。 |
同治帝の早世後、西太后は自分の妹が生んだ[[愛新覚羅奕譞|醇親王]]の子を迎えて[[光緒帝]]とし、東太后も西太后と並んで再び執政の座に就いた。が、政治の実権は権謀術数に長ける西太后が握ったままだった。東太后は光緒7年(1881年)3月9日に45歳で死去。明らかな病状は無く、[[脳卒中]]という急死だったため、早くから西太后による毒殺と囁かれた。同年9月、[[河北省]]遵化県内にある[[清東陵]]普祥峪の定東陵に埋葬された。 |
2020年8月1日 (土) 22:53時点における版
東太后(とうたいこう・とうたいごう、道光17年7月12日(1837年8月12日) - 光緒7年3月10日(1881年4月8日))は、清朝第9代皇帝咸豊帝(文宗)の皇后。満州鑲黄旗人で、姓は鈕祜禄(ニオフル)氏。広西右江道員・三等承恩公であったムヤンガ(Muyangga、穆楊阿)の娘。母は妾の姜氏。夫の死後、「母后皇太后」とされ、紫禁城の東部に位置する鍾粋宮に居住したため東太后と通称された。正式な諡は孝貞顕皇后 (満州語:ᡥᡞᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
ᠵᡝᡴᡩᡠᠨ
ᡞᠯᡝᡨᡠ
ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ 転写:hiyoošungga jekdun iletu hūwangheo)であるが、生前に奉られた尊号の慈安皇太后で呼ばれることが多い。徽号と合わせた諡号は孝貞慈安裕慶和敬誠靖儀天祚聖顕皇后。
生涯
咸豊帝の登極後、咸豊2年(1852年)2月、妃嬪の第4位である貞嬪となり、間を置かずして貞妃に封ぜられる。同年5月貴妃に進み、6月皇后に立つ。時に16歳。このことには皇帝の養母・孝静成皇后の意向が働いていたようである。
彼女は皇子女を生まず、結局懿貴妃所生の載淳が儲君となり、咸豊10年(1861年)8月に咸豊帝が熱河にて病死すると同治帝として即位した。同年11月には祺祥政変(辛酉政変)が起き、西太后の称を得た懿貴妃が恭親王と手を結んで、先帝の遺した8人の顧命王大臣を追い落として政権を握った。そこで新たに幼帝を輔佐するべく、嫡母東太后と生母西太后が垂簾聴政を敷き、叔父恭親王が議政王となった。8年後、同治12年(1873年)、同治帝の大婚を機に帰政する。
東太后は温和誠実な人柄で、いつも夫・子を立てて、実際に政治に容喙することは少なかった。東太后に養育された同治帝も、生母よりも嫡母との間がはるかに近かったという。しかし、そんな東太后も時には果断な一面を見せることがあり、その一例が、宦官の安得海を処刑した件である。安得海は、おしゃべりの相手として西太后に気に入られていたのを良いことに傍若無人な振る舞いをしていたため、心ある人々に憎まれていた。同治8年(1869年)に、安得海は西太后の命令で、やがて来たる同治帝の婚儀の衣装を買いそろえるために、山東地方へ下った。清朝には、「宦官は勝手に皇城を出てはならぬ」という法度があったが、思い上がった安得海は正式な手続きを経ていなかった。彼を憎む人々は、この機会を見逃さなかった。時の山東巡撫丁宝楨の奏聞を納れた東太后は、ただちに丁宝楨に命じ、その地で安得海を処刑させた。このことは、東太后が決して西太后の言いなりではなかったことを示すエピソードとして知られる。
同治帝の早世後、西太后は自分の妹が生んだ醇親王の子を迎えて光緒帝とし、東太后も西太后と並んで再び執政の座に就いた。が、政治の実権は権謀術数に長ける西太后が握ったままだった。東太后は光緒7年(1881年)3月9日に45歳で死去。明らかな病状は無く、脳卒中という急死だったため、早くから西太后による毒殺と囁かれた。同年9月、河北省遵化県内にある清東陵普祥峪の定東陵に埋葬された。