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このように高句麗の東夫余征討の正統性として、北夫余出自を自称する鄒牟王が持ち出され、王の親征行為を正統化する根拠となり、現実政治で夫余出自が重要な意味を果たしている<ref>{{Harvnb|李|1998|p=80}}</ref>。 |
このように高句麗の東夫余征討の正統性として、北夫余出自を自称する鄒牟王が持ち出され、王の親征行為を正統化する根拠となり、現実政治で夫余出自が重要な意味を果たしている<ref>{{Harvnb|李|1998|p=80}}</ref>。 |
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高句麗支配者集団の墳墓は[[積石塚]]である一方、夫余支配者集団の墳墓は[[土棺墓]]・[[木棺墓]]であり、墓制に関しては夫余と高句麗の違いは歴然としており、[[田村晃一]]は、墓制の違いこそ高句麗が夫余から分派したという主張が成立しないことを示していると主張し<ref>[[田村晃一]]「高句麗の積石塚」『東北アジアの考古学』、[[六興出版]]、1990年2月</ref><ref>{{Harvnb|李|1998|p=21}}</ref>、李成市は、夫余と高句麗の同一民族であるという根拠は、高句麗人の夫余自称によってのみであり、これらも高句麗の政治戦略として夫余出自を称したことが指摘され<ref>[[白鳥庫吉]]「夫余国の始祖東明王の伝説に就いて」『白鳥庫吉全集』五、[[岩波書店]]、1970年9月</ref>、「夫余と高句麗の建国伝説を同一とみるのは、後世の人びとの混乱や曲解による誤認」「これらの伝説から両族の関係を導きだすことはできない」「文献資料のうえで、夫余と高句麗の民族関係を同一とする確固とした根拠はない」として<ref>{{Harvnb|李|1998|p=21}}</ref>、高句麗王権は、有力な地縁的集団の五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)からの超越化と王権正統化の[[イデオロギー]]として出自を夫余に求めたことは間違いなく、240年代の[[魏 (三国)|魏]]の[[カン丘倹|{{lang|zh|毌丘倹}}]]による侵攻と340年代の慕容氏の侵攻で壊滅した高句麗が国家再建・強大化した時期は、夫余族の南下と高句麗への流入時期に該当し、夫余族こそ高句麗の国家再建・強大化の中心的担い手であり、また高句麗王権を支えた中核的存在であり、夫余の東明王説話と酷似する高句麗の朱蒙説話の創作は、これら夫余族の高句麗支配層への参与があってこそ可能であったろうと指摘し<ref>{{Harvnb|李|1998|p=24}}</ref>、また高句麗の[[4世紀]]以降の国家発展には、[[牟頭婁]]一族などの夫余族の高句麗流入者が無視できない役割を果たしたが、牟頭婁一族の族祖は北夫余人で、鄒牟王に従い南下し、先祖代々高句麗王に仕え、[[美川王]]・[[故国原王]]時代に[[慕容氏]]の北夫余攻撃に際し、中興の祖・[[冉牟]]が活躍し、北夫余方面支配は冉牟の子孫が受け継ぎ、後代の牟頭婁に至ったが、冉牟は、『[[三国史記]]』の美川王即位紀に美川王と試練をともにした人物として登場するが、4世紀初頭に活躍した冉牟は、3世紀末の慕容氏の攻撃により高句麗に流入した夫余族が、慕容氏との戦争など高句麗王権に多大な貢献を行ったことを象徴し<ref>{{Harvnb|李|1998|p=23}}</ref>、このことは高句麗王が夫余出自を名乗ることにより、高句麗王権と牟頭婁一族との近親感・一体感の形成、慕容氏の北夫余攻撃の不当性、慕容氏との戦争の正当性、慕容氏との戦争における勲功の一層の顕彰、北夫余に対する牟頭婁一族の支配の正当性が強固となり<ref>{{Harvnb|李|1998|p=81}}</ref>、[[3世紀]]後半の[[ |
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夫余と高句麗の民族的本支関係は後世に至るほど強調され、そのうえ夫余と高句麗の始祖は混同されており、『[[三国史記]]』高句麗本紀には、 |
夫余と高句麗の民族的本支関係は後世に至るほど強調され、そのうえ夫余と高句麗の始祖は混同されており、『[[三国史記]]』高句麗本紀には、 |
2020年8月1日 (土) 09:28時点における版
東明王 | |
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夫余王 | |
東明王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 동명왕 |
漢字: | 東明王 |
日本語読み: | とうめいおう |
東明王(とうめいおう、朝鮮語: 동명왕)は、夫余の建国者である。夫余の後裔を自称した百済の遠祖ともされ、『続日本紀』最終巻には都慕王(つもおう[1])の名で現れる。同様に夫余の後裔を自称した高句麗の建国者である朱蒙(東明聖王)と同一人物であるか否かについては議論がある(後述)。
東明王説話
『三国志』巻三〇・魏書三〇・烏丸鮮卑東夷・夫餘所引『魏略』には以下の記述がある。(『論衡』吉験篇、『後漢書』東夷伝にも同様の記述がある)
昔北方有槀離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如雞子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,豬以喙嘘之,徙至馬閑,馬以氣嘘之,不死。王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓擊水,魚鱉浮爲橋,東明得度,魚鱉乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。 〈昔、北夷の槀離之国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身ごもりました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。〉
東明王説話は日本にも伝わり、桓武天皇の母・高野新笠の諡号「天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと[2])」はこの説話から取られている(『続日本紀』最終巻による)が、日本に伝わった説話には高句麗の朱蒙説話の影響が見られる。
東明王と朱蒙(東明聖王)
夫余と高句麗が民族的に本支関係にあり、同一民族であるという主張の根拠として、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙(東明聖王)説話が同じ(類似・一致)であるという指摘がなされ[3]、このことから夫余と高句麗が同一民族であると強調される[4]。
夫余の東明王と高句麗の朱蒙の関係について最も早く指摘したのは那珂通世である[5]。那珂通世は『広開土王碑』の鄒牟(東明聖王)、『魏書』の朱蒙(東明聖王)、それと『論衡』に出てくる夫余の東明王は同一人であり、同音転訛からくる異訳であり、本来東明は高句麗の始祖であったが、『論衡』が間違って東明を夫余の始祖としたとした[6]。根拠として、『論衡』では「北夷橐離国」の王から夫余の東明が出生したとなっているが、『魏略』には「橐離国」(たくりこく)を「槀離国」(こうりこく)とあることから、「橐」(たく)は「高句」の誤字であり、正しくは『論衡』の東明王は北夷高句麗から夫余が出たことを、夫余から高句麗が出たと『論衡』筆者が本末転倒した、つまり東明王は高句麗の建国者であり、夫余に同様の説話が存在するのは中国の誤伝と斥けた[7][8]。李成市によると、那珂通世の学説はその後の研究に多大な影響を及ぼし、基本的に北朝鮮と韓国の学界は那珂通世の学説を支持している[9]。この那珂通世の学説に対して、内藤湖南は、『翰苑』注所引『後漢書』に「北橐離国」とあることから「槀離」(こうり)ではなく、「橐離」(たくり)が正しいと批判した[10][11]。
内藤湖南は、夫余の東明王と高句麗の朱蒙のモチーフである太陽などの霊気を感じて子が生まれる始祖説話は、東北アジア諸民族共通のものであり、それがただ変化しただけであり、これらの説話を共有する諸民族は、同一民族か否かは不明であるが、同一説話をもった民族であるとするにとどめ[12]、橐離国を松花江支流に居住したダウール族のことであり[註釈 1]、『論衡』の東明王説話はそのまま夫余の建国説話と認めてよいとしている[13][14]。
白鳥庫吉は、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙(東明聖王)説話は、始祖名と形式と内容が同一、異なっているのは活動舞台であり、夫余の東明王説話は歴史的・地理的に不都合はないが、高句麗の朱蒙説話は、時間的・地理的に成り立ち難いため、「高句麗は夫余と均しく濊貊種であるが、夫余とは同族でない」として[15]、高句麗の東明聖王説話は、夫余の東明王説話を改作したものであり、その目的として、長寿王時代に高句麗が夫余に包囲された際に、夫余の始祖を高句麗の始祖であるとすることにより、夫余族に安堵を与えるためと主張している[16][17]。
那珂通世、内藤湖南、白鳥庫吉の各説は異なるが、夫余の東明王と高句麗の朱蒙は同一人物乃至は同一内容の異表記ということは共通している[18]。対して池内宏は、夫余の始祖は東明王であり、朱蒙が高句麗の始祖であることを立証し、夫余の東明王と高句麗の朱蒙を峻別しなければならないと主張し、白鳥庫吉が時間的・地理的に成り立ち難いとした高句麗の朱蒙説話は、内容的に歴史的事実を反映しており、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話のそれなりの一致は、夫余と高句麗の民族的本支関係に基づき[19]、夫余の東明王と高句麗の朱蒙は別人であると主張し、高句麗時代には夫余の東明王と高句麗の朱蒙は混同されておらず[20]、百済・新羅・高句麗の三国統一後の『旧三国史』編者の過誤から夫余の東明王と高句麗の朱蒙が同一人とされたことを明らかにした[21][22]。かかる事実から李成市は「一方の説話を誤伝であるとしてその説話の存在を否定することは出来なく」なり、「夫余と高句麗は各々始祖を異にし、かつほぼ同様の建国説話があったとみなけばならないことが確認される」と述べている[23]。ただし池内宏は、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話が一致していることをもってそのまま夫余と高句麗の民族的本支関係を認めることは学術的でなく、民族が移動せず、ある民族で発生した説話が、他のある民族に伝播することは多々あり、夫余と高句麗の民族的本支関係を夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話の一致のみによって考えるべきではないと戒めており[24]、結果として池内宏は『魏志』の「東夷の旧語」史料を根拠にして、夫余と高句麗の民族的本支関係を認めるが、李成市は「『魏志』の当該史料が極めて疑わしい伝聞・推量の域を出ない事柄である」と述べている[25]。
夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話の形式や内容が同じであるという主張に対して最重要部分が全く異なることを指摘したのは三品彰英であり、三品彰英は朝鮮・満州始祖説話(神話)の基本構成を、卵生型・箱舟漂流型・感精型・獣祖型の4形式に類別し、『広開土王碑』の鄒牟(東明聖王)説話は、史料上朝鮮最古の卵生型であり、卵生の前件として天帝の子と中国の河伯の娘の柳花夫人が結婚するなど人態化が進化し、かなり発展した説話であり、感精型である夫余の東明王説話と卵生型である高句麗の朱蒙説話は異なり[26]、卵生構成の建国説話を持つ高句麗・新羅・加羅は、卵生構成が最繁栄している台湾などの南方諸族に繋がっていることを示しており、高句麗の朱蒙説話は、南方諸族境域に所属し、漢族とも接する濊貊族の黄海沿岸原住地から伴ったものと指摘している(ただし三品彰英は、高句麗の朱蒙説話が北方の日光感精構成を複合していることは認めている)[27][28]。
『広開土王碑』(414年建立)には、高句麗の出自は北夫余に有りと明記され、435年に平壌を訪問した李敖も「高句麗者出於夫余」としており、5世紀初頭に高句麗人の夫余自称が史料に登場し、夫余と高句麗の民族的本支関係が明確化されるが、白鳥庫吉は、高句麗人の夫余自称の事実性を疑問視しており、東夫余・北夫余が広開土王の臣民となり、高句麗の南にある百済を含め、高句麗が夫余族に包囲され、夫余族を懐柔するため、長寿王は夫余の東明王説話を利用し、自らが夫余族の本家本元であることを自称し、東夫余・北夫余に対しては安堵させ、百済に対しては百済征討の正統性を得ることを画策して、夫余出自を自称したと主張した[29][30]。李成市は、これらの高句麗がおかれた国際状況を処理するため、政治戦略として夫余出自が果たした事例として『広開土王碑』の以下を挙げる[31]。
廿年庚戌,東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢,王躬率往討, — 『広開土王碑』
惟昔始祖,鄒牟王之創基也。出自北夫餘,天帝之子。母河伯女郎。 — 『広開土王碑』
このように高句麗の東夫余征討の正統性として、北夫余出自を自称する鄒牟王が持ち出され、王の親征行為を正統化する根拠となり、現実政治で夫余出自が重要な意味を果たしている[33]。
高句麗支配者集団の墳墓は積石塚である一方、夫余支配者集団の墳墓は土棺墓・木棺墓であり、墓制に関しては夫余と高句麗の違いは歴然としており、田村晃一は、墓制の違いこそ高句麗が夫余から分派したという主張が成立しないことを示していると主張し[34][35]、李成市は、夫余と高句麗の同一民族であるという根拠は、高句麗人の夫余自称によってのみであり、これらも高句麗の政治戦略として夫余出自を称したことが指摘され[36]、「夫余と高句麗の建国伝説を同一とみるのは、後世の人びとの混乱や曲解による誤認」「これらの伝説から両族の関係を導きだすことはできない」「文献資料のうえで、夫余と高句麗の民族関係を同一とする確固とした根拠はない」として[37]、高句麗王権は、有力な地縁的集団の五族(消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部)からの超越化と王権正統化のイデオロギーとして出自を夫余に求めたことは間違いなく、240年代の魏の毌丘倹による侵攻と340年代の慕容氏の侵攻で壊滅した高句麗が国家再建・強大化した時期は、夫余族の南下と高句麗への流入時期に該当し、夫余族こそ高句麗の国家再建・強大化の中心的担い手であり、また高句麗王権を支えた中核的存在であり、夫余の東明王説話と酷似する高句麗の朱蒙説話の創作は、これら夫余族の高句麗支配層への参与があってこそ可能であったろうと指摘し[38]、また高句麗の4世紀以降の国家発展には、牟頭婁一族などの夫余族の高句麗流入者が無視できない役割を果たしたが、牟頭婁一族の族祖は北夫余人で、鄒牟王に従い南下し、先祖代々高句麗王に仕え、美川王・故国原王時代に慕容氏の北夫余攻撃に際し、中興の祖・冉牟が活躍し、北夫余方面支配は冉牟の子孫が受け継ぎ、後代の牟頭婁に至ったが、冉牟は、『三国史記』の美川王即位紀に美川王と試練をともにした人物として登場するが、4世紀初頭に活躍した冉牟は、3世紀末の慕容氏の攻撃により高句麗に流入した夫余族が、慕容氏との戦争など高句麗王権に多大な貢献を行ったことを象徴し[39]、このことは高句麗王が夫余出自を名乗ることにより、高句麗王権と牟頭婁一族との近親感・一体感の形成、慕容氏の北夫余攻撃の不当性、慕容氏との戦争の正当性、慕容氏との戦争における勲功の一層の顕彰、北夫余に対する牟頭婁一族の支配の正当性が強固となり[40]、3世紀後半の慕容廆の攻撃により大打撃を被った夫余の南下は、隣接する高句麗にとって統治上看過しえない問題であり、4世紀初頭にかつての夫余の中枢を領有化した高句麗はその統治に牟頭婁一族などの夫余族が抜擢されたことが考えられ、新附の夫余族との融合、夫余の旧領域占有の正統性と歴史的根拠を主張する根拠として、高句麗王の夫余出自が政治戦略的に有効であったことは間違いなく、「かかる状況のもとに生まれたのが始祖鄒牟の建国説話でなかったかと思われる」と指摘している[41]。
夫余と高句麗の民族的本支関係は後世に至るほど強調され、そのうえ夫余と高句麗の始祖は混同されており、『三国史記』高句麗本紀には、
始祖東明聖王,姓高氏,諱朱蒙〈一云鄒牟 一云衆解〉 — 『三国史記』高句麗本紀
とあり、朱蒙は東明王の諱となり、夫余と高句麗の始祖が同一人物となるが、夫余と高句麗の始祖の混同が高句麗滅亡後に生じたことは判明しているが、詳細は不明である。しかし池内宏は、夫余と高句麗の始祖が同一人物となったのは、統一新羅後の撰者不明の『旧三国史』としたが、誤認がなされた経緯については言及がなく[42]、津田左右吉は、後代の高句麗王に王名以外にも諱・称号が付いた慣例に倣った新羅人の所為としつつも東明とした理由は不問に付し[43]、白鳥庫吉は、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙説話が酷似していることからきた後世の史家の誤りとした[44][45]。
李成市は、後世の史家が夫余と高句麗の始祖を同一人物として、高句麗の始祖に措定した根拠となったのは『梁書』高句麗伝であると指摘している[46]。
『梁書』高句麗伝には以下ある。
高句驪者,其先出自東明。 — 『梁書』高句麗伝
其後支別爲句驪種也。 — 『梁書』高句麗伝
冒頭で「高句驪者、其先出自東明」として、次に夫余の東明王説話を転載して、末尾で「其後支別爲句驪種也」と結語して民族の起源を叙述したが、冒頭の「高句驪者、其先出自東明」こそ、後世の史家が夫余と高句麗の始祖を同一人物として、高句麗の始祖に措定する根拠となったのではないかとして[47]、『梁書』高句麗伝の記事は『魏志』を典拠としながらも編者の意図から書き改められており、『梁書』高句麗伝は、夫余と高句麗の民族的本支関係を強調する叙述が「作為的」なほど存在することを指摘している[48]。
例えば『魏志』にある以下の記事は、
以十月祭天,國中大會,名曰東盟。 — 『魏志』
『梁書』には、
以十月祭天大會,名曰「東明」。 — 『梁書』
とあり、同様の記事が高句麗の民族的祭祀が『梁書』では夫余の東明王の祭祀に附会して祭祀名が改変され、夫余の東明王と無関係の高句麗の祭祀名が夫余の東明王と同一名に改められており(白鳥庫吉は、高句麗の「東盟」は、「東方に会合して盟約するとか、東方に盟約するとかいう意義から命じた祭祀の名」の漢語であり、東明王と無関係であることを明らかにしている[49][50])、この改変も夫余と高句麗の民族的本支関係を強調する目的で「周到にはかられ」、『梁書』高句麗伝冒頭に夫余の東明王説話をもってきたのも夫余と高句麗の民族的本支関係を強調する目的であり[51]、李成市は、魏の毌丘倹による侵攻があった3世紀半ばまでは夫余と高句麗の民族的本支関係は事実とは考えにくい、夫余の東明王説話と高句麗の朱蒙(東明聖王)説話は始祖が異なり、内容・形式も最重要部分が異なり、このことから夫余と高句麗の民族的本支関係の根拠とならない、5世紀初頭に高句麗人の夫余自称が史料に登場し、夫余と高句麗の民族的本支関係が明確化さるが、政治戦略として夫余出自を自称したと結論付けている[52]。
脚注
- ^ 宇治谷孟『続日本紀(下)全現代語訳』講談社学術文庫 1995年 ISBN 4061590324 427頁
- ^ 宇治谷孟『続日本紀(下)全現代語訳』講談社学術文庫 1995年 ISBN 4061590324 427頁
- ^ 李 1998, p. 74
- ^ 李 1998, p. 63
- ^ 李 1998, p. 75
- ^ 李 1998, p. 76
- ^ 那珂通世「朝鮮古史考」『外交繹史』、岩波書店、1958年2月、101頁
- ^ 李 1998, p. 76
- ^ 李 1998, p. 76
- ^ 内藤湖南「旧鈔本翰苑に就きて」『内藤湖南全集』第7巻、筑摩書房、1970年2月、121頁
- ^ 李 1998, p. 89
- ^ 李 1998, p. 76
- ^ 李 1998, p. 76
- ^ 内藤湖南「東北亜細亜諸国の開闢伝説」『民族と歴史』一 - 四、1919年4月
- ^ 李 1998, p. 76
- ^ 白鳥庫吉「夫余国の始祖東明王の伝説に就いて」『白鳥庫吉全集』五、岩波書店、1970年9月、391頁
- ^ 李 1998, p. 63
- ^ 李 1998, p. 77
- ^ 李 1998, p. 77
- ^ 津田左右吉「三国史記高句麗紀の批判」『津田左右吉全集』一二、岩波書店、1964年9月、395頁にも同様の指摘が存在。
- ^ 池内宏「高句麗の建国伝説と史上の事実」『満鮮史研究』上世篇、祖国社、1951年9月
- ^ 李 1998, p. 77
- ^ 李 1998, p. 77
- ^ 池内宏「高句麗の建国伝説と史上の事実」『満鮮史研究』上世篇、祖国社、1951年9月、97頁-98頁
- ^ 李 1998, p. 77
- ^ 李 1998, p. 78
- ^ 三品彰英「神話と文化境域」『三品彰英論文集』第3巻、平凡社、1972年4月、378頁-381頁
- ^ 李 1998, p. 78
- ^ 白鳥庫吉「夫余国の始祖東明王の伝説に就いて」『白鳥庫吉全集』五、岩波書店、1970年9月、386頁-391頁
- ^ 李 1998, p. 79
- ^ 李 1998, p. 80
- ^ 李 1998, p. 80
- ^ 李 1998, p. 80
- ^ 田村晃一「高句麗の積石塚」『東北アジアの考古学』、六興出版、1990年2月
- ^ 李 1998, p. 21
- ^ 白鳥庫吉「夫余国の始祖東明王の伝説に就いて」『白鳥庫吉全集』五、岩波書店、1970年9月
- ^ 李 1998, p. 21
- ^ 李 1998, p. 24
- ^ 李 1998, p. 23
- ^ 李 1998, p. 81
- ^ 李 1998, p. 84
- ^ 池内宏「高句麗の建国伝説と史上の事実」『満鮮史研究』上世篇、祖国社、1951年9月、97頁
- ^ 津田左右吉「三国史記高句麗紀の批判」『津田左右吉全集』一二、岩波書店、1964年9月、397頁、416頁
- ^ 白鳥庫吉「夫余国の始祖東明王の伝説に就いて」『白鳥庫吉全集』五、岩波書店、1970年9月、376頁
- ^ 李 1998, p. 85
- ^ 李 1998, p. 85
- ^ 李 1998, p. 85
- ^ 李 1998, p. 86
- ^ 白鳥庫吉「夫余国の始祖東明王の伝説に就いて」『白鳥庫吉全集』五、岩波書店、1970年9月、379頁
- ^ 李 1998, p. 91
- ^ 李 1998, p. 86
- ^ 李 1998, p. 84
註釈
- ^ 松本信広編集『論集 日本文化の起源4』(平凡社、1971年) 所収 内藤湖南「東北亜細亜諸国の開闢伝説」p251-p252
- 東北アジア諸国、すなわち東部蒙古より以東の各民族は、朝鮮・日本へかけて一の共通せる開国伝説をもっている。すなわち太陽もしくは何か或る物の霊気に感じて、処女が子を生み、それが国の元祖となったという説であって、時としてはその伝説が変形して、その内の一部分が失われ、もしくは他の部分が附加さるるという事があるけれども、その系統を考えると、だいたいにおいて一つの伝説の分化したものであるということを推断する事が出来る。その最も古く現れたのは、夫余国の開闢説であって、その記された書は王充の『論衡』である。『論衡』は西暦一世紀頃にできた書であるが、その吉験篇に、「北夷橐離國王侍婢有娠,王欲殺之。婢對曰。有氣大如雞子,從天而下,我故有娠。後產子,捐於豬溷中,豬以口氣噓之,不死。復徙置馬欄中,欲使馬借殺之,馬復以口氣噓之,不死。王疑以為天子,令其母收取奴畜之,名東明,令牧牛馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至掩水,以弓擊水,魚鱉浮為橋。東明得渡,魚鱉解散,追兵不得渡,因都王夫餘。故北夷有夫餘國焉。」とある。『三国志』の夫余伝に『魏略』を引いてあるのも、ほぼこれと同じ事で、『後漢書』の夫余伝も、文はやや異なるけれども、事は同じである。この中に橐離国とあるはダフール種族の事である。松花江に流れ込む河にノンニーという河があり、それと合流する河にタオル河がある(ノンニー河は嫩江(一名諾尼江)、タオル河は洮児江を指す)。そのタオル河附近に居住した民族がすなわちダフール種族で、すなわち橐離国である。また夫余国というのは、今日の長春辺から西北に向って存在した国で、この伝説はダフール、夫余両国に関係したものである。
参考文献
- 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日。ISBN 978-4000029032。
- 『続日本紀』延暦9年1月15日条