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'''莫護跋'''(ばくごばつ、{{ピン音|Mòhùbá}}、生没年不詳)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に活動していた[[鮮卑]]族の[[大人 (曖昧さ回避)|大人]]。[[慕容部]]の始祖。子は[[慕容木延]]。[[前燕]]の基礎を作った[[慕容カイ|慕容廆]]の曾祖父にあたる。
'''莫護跋'''(ばくごばつ、{{ピン音|Mòhùbá}}、生没年不詳)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に活動していた[[鮮卑]]族の[[大人 (曖昧さ回避)|大人]]。[[慕容部]]の始祖。子は[[慕容木延]]。[[前燕]]の基礎を作った[[慕容廆]]の曾祖父にあたる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==

2020年8月1日 (土) 09:26時点における版

莫護跋(ばくごばつ、拼音: Mòhùbá、生没年不詳)は、三国時代に活動していた鮮卑族の大人慕容部の始祖。子は慕容木延前燕の基礎を作った慕容廆の曾祖父にあたる。

生涯

元々は鮮卑族の大人の一人である。

が建国されて間もない頃、莫護跋は鮮卑の中でも自らの傘下にあった諸部族とその大人を率い、塞外(北の国境の外側)から遼西へ移り、この地に入居するようになった。その後、自らが束ねていた集団の事を慕容部と称したという[1]

238年6月、魏の大将軍司馬懿遼東の地で自立していた公孫淵討伐に向かうと、莫護跋はこれに協力して功績を挙げ、率義王に封じられた。これにより正式に遼西に住居する事を認められ、棘城(現在の遼寧省錦州市義県)の北部に自らの領土を得た。

彼の死後は子の慕容木延が大人の位を継いだ。没年は不詳であるが、245年には既に慕容木延が大人となっている事から、それ以前と思われる。

慕容という呼称について

慕容部という部族名(及び氏族名)は莫護跋より始まったと言われているが、その語源については諸説がある。

  • 後漢の桓帝の時代、鮮卑の大人である檀石槐は自らの領有する土地を東部・中部・西部の3部に分けた。中部の大人の一人には慕容という人物がおり、彼は部族の大帥(部族集団を束ねる有力者)となった。資治通鑑に注釈をつけた胡三省はこれこそが慕容部の始りだと述べている[2]。これが正しいならば、莫護跋は祖先の名前を部族名とした事になる。
  • の地方では歩揺冠(歩く度に揺れる金製の)をかぶる少年が多く、莫護跋はこれを気に入り、髪をまとめて歩揺冠をかぶった。これにより諸部族は彼のことを歩揺と呼ぶようになり、その後に音が訛って慕容と呼ばれるようになったという[3]。但し、これは前燕が建国された後、その臣下が吹聴した説だともいわれている[2]
  • 莫護跋自ら「二儀(天・地)の徳を慕い、三光(日・月・星)の容(度量)を継がん」と宣言した事から、慕容を姓としたともいわれる[3]
  • 莫護跋の祖先が慕容寺という場所に拠点を構えていた事から、これを部族名として採用したともいわれる。但し、これは王沈の著した『魏書』にある『柯最闕居慕容等為大帥(柯最・闕居・慕容らが大帥となった)』という文章の『』という文字が、写本の過程で『』にすり替ってしまった事で、『柯最闕居慕容寺為大帥(柯最闕は大帥となって慕容寺に居した)』という解釈に変わってしまった事が原因であるともいう。

伝承

伝説によると、彼の八世祖は乾帰[4]という人物であり、神霊を感じ取る事が出来たという。また、金銀の襦鎧を身に着け、金銀の鞍勒を身に着けた白馬に乗り、天より降り立ったという。鮮卑の人々はこれを神とみなし、君主として推戴したという。

脚注

  1. ^ 『資治通鑑』巻81による
  2. ^ a b 『資治通鑑』巻81 胡三省注による
  3. ^ a b 『晋書』巻108より
  4. ^ 『十六国春秋』による。『太平御覧』には乾羅とある

参考資料

関連項目

先代
慕容部の大人
初代:? - ?
次代
慕容木延