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「閻鼎」の版間の差分

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『晋書』劉隗伝より。劉疇も閻鼎に殺害されている。
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[[311年]]6月、[[洛陽]]が[[前趙|漢]]軍の攻勢により陥落し、[[懐帝 (西晋)|懐帝]]は捕らわれの身となった。秦王[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]が禍を避けて密県に出奔して来ると、[[司空]][[荀藩]]とその弟である[[司隷校尉]][[荀組]]・中領軍[[華恒]]・[[河南尹]][[華薈]]らは密県において行台(臨時政府)を立て、司馬鄴を盟主に仰いだ。閻鼎は才幹があって強大な兵を擁していたので、荀藩により冠軍将軍・豫州刺史に任じられ、太傅参軍[[劉蔚]]・中書令[[李恒 (西晋)|李恒]]・司徒左長史[[劉疇]]・鎮軍長史[[周顗]]・司馬[[李述]]らがその参佐となった。やがて、密県は漢の勢力圏から近かった事から、南へ移動して許潁の地に屯した。
[[311年]]6月、[[洛陽]]が[[前趙|漢]]軍の攻勢により陥落し、[[懐帝 (西晋)|懐帝]]は捕らわれの身となった。秦王[[愍帝 (西晋)|司馬鄴]]が禍を避けて密県に出奔して来ると、[[司空]][[荀藩]]とその弟である[[司隷校尉]][[荀組]]・中領軍[[華恒]]・[[河南尹]][[華薈]]らは密県において行台(臨時政府)を立て、司馬鄴を盟主に仰いだ。閻鼎は才幹があって強大な兵を擁していたので、荀藩により冠軍将軍・豫州刺史に任じられ、太傅参軍[[劉蔚]]・中書令[[李恒 (西晋)|李恒]]・司徒左長史[[劉疇]]・鎮軍長史[[周顗]]・司馬[[李述]]らがその参佐となった。やがて、密県は漢の勢力圏から近かった事から、南へ移動して許潁の地に屯した。


当時、[[長安]]は漢軍の攻勢により陥落していたが、[[雍州]]刺史[[賈疋]]・[[馮翊郡|馮翊]]太守[[索チン|索綝]]・安夷護軍[[麹允]]らが長安奪還を掲げて挙兵し、漢軍と争っていた。
当時、[[長安]]は漢軍の攻勢により陥落していたが、[[雍州]]刺史[[賈疋]]・[[馮翊郡|馮翊]]太守[[索綝]]・安夷護軍[[麹允]]らが長安奪還を掲げて挙兵し、漢軍と争っていた。


10月、閻鼎は郷里である西土(関中一帯)に帰って功を立てたいと考えており、撫軍長史[[王毗]]らと議論を重ねた。司徒左長史劉疇・太傅参軍[[鄒捷]]らも「山東は霸王の地ではなく、関中に及びません」と述べ、[[孟津県|河陰]]県令[[傅暢]]もまた手紙を送り、長安で再起を図り晋室を再興するよう勧めた。これにより閻鼎は西進を決断したが、荀藩・劉疇・周顗・李述らは山東出身であったので、これを望まず途中で離散してしまった。閻鼎は兵を派遣して彼らを追撃し、李恒・劉疇を殺したが、他の者は逃走した。
10月、閻鼎は郷里である西土(関中一帯)に帰って功を立てたいと考えており、撫軍長史[[王毗]]らと議論を重ねた。司徒左長史劉疇・太傅参軍[[鄒捷]]らも「山東は霸王の地ではなく、関中に及びません」と述べ、[[孟津県|河陰]]県令[[傅暢]]もまた手紙を送り、長安で再起を図り晋室を再興するよう勧めた。これにより閻鼎は西進を決断したが、荀藩・劉疇・周顗・李述らは山東出身であったので、これを望まず途中で離散してしまった。閻鼎は兵を派遣して彼らを追撃し、李恒・劉疇を殺したが、他の者は逃走した。

2020年8月1日 (土) 09:13時点における版

閻 鼎(えん てい、? - 312年)は、中国西晋時代の人物。字は台臣天水郡(現在の甘粛省天水市)の出身。

生涯

幼い頃より大志を抱いていたという。

始め、東海王司馬越の参軍に任じられた。後に領豫州刺史に任じられ、許昌に駐屯した。母が亡くなると、密県において涼州から来ていた流民数千人を纏め上げ、その面倒を見るようになった。

311年6月、洛陽軍の攻勢により陥落し、懐帝は捕らわれの身となった。秦王司馬鄴が禍を避けて密県に出奔して来ると、司空荀藩とその弟である司隷校尉荀組・中領軍華恒河南尹華薈らは密県において行台(臨時政府)を立て、司馬鄴を盟主に仰いだ。閻鼎は才幹があって強大な兵を擁していたので、荀藩により冠軍将軍・豫州刺史に任じられ、太傅参軍劉蔚・中書令李恒・司徒左長史劉疇・鎮軍長史周顗・司馬李述らがその参佐となった。やがて、密県は漢の勢力圏から近かった事から、南へ移動して許潁の地に屯した。

当時、長安は漢軍の攻勢により陥落していたが、雍州刺史賈疋馮翊太守索綝・安夷護軍麹允らが長安奪還を掲げて挙兵し、漢軍と争っていた。

10月、閻鼎は郷里である西土(関中一帯)に帰って功を立てたいと考えており、撫軍長史王毗らと議論を重ねた。司徒左長史劉疇・太傅参軍鄒捷らも「山東は霸王の地ではなく、関中に及びません」と述べ、河陰県令傅暢もまた手紙を送り、長安で再起を図り晋室を再興するよう勧めた。これにより閻鼎は西進を決断したが、荀藩・劉疇・周顗・李述らは山東出身であったので、これを望まず途中で離散してしまった。閻鼎は兵を派遣して彼らを追撃し、李恒・劉疇を殺したが、他の者は逃走した。

その後、司馬鄴を伴ってから武関に向かったが、上洛において盗賊から襲撃を受け、数百人が殺害された。閻鼎は敗残兵をかき集めると、進軍を再開して藍田に入った。ここで晋軍の総大将である賈疋に使者を送ると、賈疋は兵を出して一行を迎え入れた。12月、司馬鄴と共に雍城に入った。

312年4月、賈疋らが長安を奪還すると、司馬鄴を雍城から長安へ奉迎した。

9月、賈疋・南陽王司馬保衛将軍梁芬京兆尹梁綜らと共に司馬鄴を皇太子に推戴し、社稷宗廟を建立した。閻鼎は太子詹事に任じられ、百官を総監し、朝政を司る事となった。

12月、扶風郡太守梁綜は閻鼎が大権を握った事に不満を抱き、閻鼎と争うようになり、閻鼎は梁綜を殺害した。始平郡太守麹允・撫夷護軍索綝もまた閻鼎の功を妬み、索綝の親戚で梁綜の弟である馮翊太守梁緯・北地郡太守梁粛へ、閻鼎を除いて仇を討つ事を持ち掛けた。こうして連名で閻鼎を弾劾し、閻鼎が無君の心を有して独断で大臣を殺戮していると訴え、誅殺を請うた。また、同時に兵を繰り出して閻鼎を攻撃した。閻鼎は雍城へ逃走したが、竇首に殺害され、首は長安に送られた。

参考文献