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「斉万年」の版間の差分

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[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の時代の[[296年]]([[元康 (晋)|元康]]6年)には[[匈奴]]の[[郝度元]]が羌胡の2族を連合し反晋活動を開始する。当時関中では飢饉が発生しており、[[秦州|秦]]・[[雍州|雍]]の羌人もこれに呼応し、斉万年を皇帝に推戴し兵力7万の勢力となった。斉万年の軍勢は涇陽(現在の[[甘粛省]][[平涼市]]北西)に進撃し、その影響力は無視できないものとなった。
[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の時代の[[296年]]([[元康 (晋)|元康]]6年)には[[匈奴]]の[[郝度元]]が羌胡の2族を連合し反晋活動を開始する。当時関中では飢饉が発生しており、[[秦州|秦]]・[[雍州|雍]]の羌人もこれに呼応し、斉万年を皇帝に推戴し兵力7万の勢力となった。斉万年の軍勢は涇陽(現在の[[甘粛省]][[平涼市]]北西)に進撃し、その影響力は無視できないものとなった。


晋朝は梁王[[司馬ユウ|司馬肜]]の下、安西将軍[[夏侯駿]]、建威将軍[[周処]]([[周魴]]の子)等を征討に派遣する。斉万年の軍は梁山(現在の[[陝西省]][[乾県]])を拠点とし、5千の兵を以ってこれを迎撃し全滅させ、周処を戦死させた。司馬肜と周処とは不仲であり、司馬肜はわざと周処を死地に追いやったのである。また、斉万年は周処と面識があり、「周処殿が大将なら我々に勝ち目はないが、副将であれば使いこなせるものはいないのだから生け捕るまでだ」と評していた。
晋朝は梁王[[司馬肜]]の下、安西将軍[[夏侯駿]]、建威将軍[[周処]]([[周魴]]の子)等を征討に派遣する。斉万年の軍は梁山(現在の[[陝西省]][[乾県]])を拠点とし、5千の兵を以ってこれを迎撃し全滅させ、周処を戦死させた。司馬肜と周処とは不仲であり、司馬肜はわざと周処を死地に追いやったのである。また、斉万年は周処と面識があり、「周処殿が大将なら我々に勝ち目はないが、副将であれば使いこなせるものはいないのだから生け捕るまでだ」と評していた。


[[298年]]、西晋は左積弩将軍[[孟観]]による征伐を再び実施、翌年、斉万年軍は中亭(現在の陝西省[[武功県]]西)で敗れ、斉万年は殺害された。こうして叛乱は4年で崩壊した。
[[298年]]、西晋は左積弩将軍[[孟観]]による征伐を再び実施、翌年、斉万年軍は中亭(現在の陝西省[[武功県]]西)で敗れ、斉万年は殺害された。こうして叛乱は4年で崩壊した。

2020年7月31日 (金) 10:22時点における版

斉 万年(せい ばんねん、? - 299年)は、中国・西晋時代の人物。チベット系族の首長。

後漢からの時代にかけて、当時の政策により、周辺の少数民族が関中に入り居住していたが、その生活は貧しく、漢人からは差別的な待遇を受けていたこともあり、西晋の初期からたびたび大規模な反乱が勃発していた。武帝(司馬炎)の時代では270年より10年間つづいた、河西鮮卑禿髪樹機能の反乱が有名であるが、将軍馬隆によりこれは鎮圧された。

恵帝の時代の296年元康6年)には匈奴郝度元が羌胡の2族を連合し反晋活動を開始する。当時関中では飢饉が発生しており、の羌人もこれに呼応し、斉万年を皇帝に推戴し兵力7万の勢力となった。斉万年の軍勢は涇陽(現在の甘粛省平涼市北西)に進撃し、その影響力は無視できないものとなった。

晋朝は梁王司馬肜の下、安西将軍夏侯駿、建威将軍周処周魴の子)等を征討に派遣する。斉万年の軍は梁山(現在の陝西省乾県)を拠点とし、5千の兵を以ってこれを迎撃し全滅させ、周処を戦死させた。司馬肜と周処とは不仲であり、司馬肜はわざと周処を死地に追いやったのである。また、斉万年は周処と面識があり、「周処殿が大将なら我々に勝ち目はないが、副将であれば使いこなせるものはいないのだから生け捕るまでだ」と評していた。

298年、西晋は左積弩将軍孟観による征伐を再び実施、翌年、斉万年軍は中亭(現在の陝西省武功県西)で敗れ、斉万年は殺害された。こうして叛乱は4年で崩壊した。

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