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[[太康 (晋)|太康]]4年([[283年]])に父が急死したために王位を継承する。この際に父の遺命に従って3名の弟に領土を分封してそれぞれを王とした。冗従僕射に任命されるが、[[太熙]]元年([[290年]])に35歳で急逝した。長男の司馬睿が後を継いだ。 |
2020年7月31日 (金) 10:20時点における版
司馬 覲(しば きん、256年 - 290年)は、三国時代から西晋の人物で、魏・晋の貴族。字は思祖。
西晋の琅邪王司馬伷の子。母は諸葛太妃(諸葛誕の娘)。妻は夏侯荘(夏侯威の子)の娘の夏侯光姫。子に司馬睿(東晋の元帝)・東安王司馬渾。諡号は恭王。
太康4年(283年)に父が急死したために王位を継承する。この際に父の遺命に従って3名の弟に領土を分封してそれぞれを王とした。冗従僕射に任命されるが、太熙元年(290年)に35歳で急逝した。長男の司馬睿が後を継いだ。
子の司馬睿は司馬覲の死後まもなく勃発した八王の乱・永嘉の乱により晋朝と江北が混乱すると、それを避けて江南に逃れ、西晋王朝崩壊後に自ら皇帝に即位した(東晋の元帝)。琅邪国は皇帝の重要な縁戚として東晋の末期まで続いた。
次男の司馬渾(元帝の弟)は叔父の東安王司馬繇(司馬覲の弟)が304年に成都王司馬穎に殺害されて後継者がなかったので、その後を受け継いだ。しかし子がないまま早世し、東安国は廃止されてしまった。