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[[304年]]、司馬穎が都督[[幽州]]諸軍事[[王浚]]・東嬴公[[司馬騰]]らに敗れて[[長安]]に落ち延び、[[丞相]]・[[皇太弟]]の位を剥奪された。
[[304年]]、司馬穎が都督[[幽州]]諸軍事[[王浚]]・東嬴公[[司馬騰]]らに敗れて[[長安]]に落ち延び、[[丞相]]・[[皇太弟]]の位を剥奪された。


[[305年]]7月、公師藩は将軍を自称し、司馬穎復権を掲げて[[趙郡|趙]]・[[魏郡|魏]]の地で挙兵した。同じく司馬穎の旧将であった[[楼権]]・[[郝昌]]らも加わり、その兵は数万を数えた。公師藩は郡県を攻略すると、陽平郡太守[[李志]]や[[汲郡]]太守[[張延]]らを敗死させ、転戦しながら[[鄴|鄴城]]に迫った。これにより、司馬穎は鎮軍大将軍・都督河北諸軍事となり、鄴城を再び鎮守する事が出来た。[[冀州]]を守る平昌公[[司馬模]]は公師藩到来を大いに恐れ、配下の[[趙驤]]や[[馮嵩]]に命じて迎え撃たせると、公師藩はこれに敗れた。[[司馬コウ|司馬虓]]が配下の[[苟晞]]を鄴城救援に派遣し、[[広平郡]]太守[[丁紹]]と共に軍を進めると、公師藩は迎撃に出るも再び敗れた。9月、公師藩は転進して[[平原郡 (山東省)|平原郡]]太守[[王景]]、[[清河郡]]太守[[馮熊]]らを攻撃し、いずれも討ち取った。
[[305年]]7月、公師藩は将軍を自称し、司馬穎復権を掲げて[[趙郡|趙]]・[[魏郡|魏]]の地で挙兵した。同じく司馬穎の旧将であった[[楼権]]・[[郝昌]]らも加わり、その兵は数万を数えた。公師藩は郡県を攻略すると、陽平郡太守[[李志]]や[[汲郡]]太守[[張延]]らを敗死させ、転戦しながら[[鄴|鄴城]]に迫った。これにより、司馬穎は鎮軍大将軍・都督河北諸軍事となり、鄴城を再び鎮守する事が出来た。[[冀州]]を守る平昌公[[司馬模]]は公師藩到来を大いに恐れ、配下の[[趙驤]]や[[馮嵩]]に命じて迎え撃たせると、公師藩はこれに敗れた。[[司馬虓]]が配下の[[苟晞]]を鄴城救援に派遣し、[[広平郡]]太守[[丁紹]]と共に軍を進めると、公師藩は迎撃に出るも再び敗れた。9月、公師藩は転進して[[平原郡 (山東省)|平原郡]]太守[[王景]]、[[清河郡]]太守[[馮熊]]らを攻撃し、いずれも討ち取った。


[[306年]]8月、公師藩は[[滑県|白馬]]から[[黄河]]を渡って南下を図ったが、苟晞の追撃を受け斬り殺された。
[[306年]]8月、公師藩は[[滑県|白馬]]から[[黄河]]を渡って南下を図ったが、苟晞の追撃を受け斬り殺された。

2020年7月31日 (金) 10:16時点における版

公師 藩(こうし はん、? - 306年)は、西晋の人物。陽平郡の出身。『十六国春秋』には公孫藩とも記載される。

生涯

西晋に仕え、成都王司馬穎の配下となって帳下督に任じられた。

303年、司馬穎は前将軍陸機に命じて長沙王司馬乂を攻撃させたが、宦官孟玖は陸機の謀反をでっち上げた。公師藩はかつて孟玖に抜擢されたこともあり、これに同調して陸機の謀反を告げた。陸機は処刑され、三族皆殺しとなった。

304年、司馬穎が都督幽州諸軍事王浚・東嬴公司馬騰らに敗れて長安に落ち延び、丞相皇太弟の位を剥奪された。

305年7月、公師藩は将軍を自称し、司馬穎復権を掲げての地で挙兵した。同じく司馬穎の旧将であった楼権郝昌らも加わり、その兵は数万を数えた。公師藩は郡県を攻略すると、陽平郡太守李志汲郡太守張延らを敗死させ、転戦しながら鄴城に迫った。これにより、司馬穎は鎮軍大将軍・都督河北諸軍事となり、鄴城を再び鎮守する事が出来た。冀州を守る平昌公司馬模は公師藩到来を大いに恐れ、配下の趙驤馮嵩に命じて迎え撃たせると、公師藩はこれに敗れた。司馬虓が配下の苟晞を鄴城救援に派遣し、広平郡太守丁紹と共に軍を進めると、公師藩は迎撃に出るも再び敗れた。9月、公師藩は転進して平原郡太守王景清河郡太守馮熊らを攻撃し、いずれも討ち取った。

306年8月、公師藩は白馬から黄河を渡って南下を図ったが、苟晞の追撃を受け斬り殺された。

参考文献

  • 晋書』帝紀第四 列伝第七 列伝二十四 列伝第三十一 載記第四
  • 資治通鑑』巻八十五 巻八十六